『眠りの航路』呉明益

呉明益の本を手に取るのは『自転車泥棒』についで二冊目である。他にも邦訳作品がある中で『眠りの航路』を選んだのは、『自転車泥棒』でこの作品が言及されていただけではなく、戦時中の日本の海軍工廠での生活が描かれていること、さらに、三島由紀夫が登場するからである。もっとも、自分自身にとっては、三島由紀夫は歴史的な人物であり、映像や著作から受ける一定の印象はあるものの、彼と同時代に生きた人が受けたであろうほどの印象はない。要するに、台湾の作家が日本をどう描くか、歴史的な人物とどのような関係を持つのか、というところに惹かれたものである。

 

話の大筋としては、睡眠障害に悩まされる物書きの「ぼく」と、その父で日本に渡って工廠で生活を送る「三郎」の話を織り交ぜながら、台湾の各時代を背景に、家族の歴史を描いていくというもの。睡眠障害の治療のために「ぼく」が日本を訪問する場面があり、途中で工廠跡の碑文を見るシーンもある。

 

面白いのは、「ぼく」と「三郎」だけではなく、大人になった「父」や、「三郎」が飼っていた亀、B29に搭乗していた米軍兵士、さらに観音の視点でも描かれることである。他にも夢に関する解説、ゼロ戦堀越二郎の話なども盛り込まれている。視点の多様さはこの物語の幅の広さを、随所に挟まれた医学的情報や史実は深さを広げてくれるようだ。

 

「訳者あとがき」では「台湾における歴史の断絶や戦後における再植民地/国民化の試みなど、様々な問題が包括されている」とある。まさにそのとおりで、特に使う言葉の問題には考えさせられる。印象的なのは「三郎」を「あなた」と呼ぶ2章の12節のこの部分。

「あなたの知っている文字には限りがあったし、その頭はある言語によって占領され、少年時代に感じた憤怒や恐慌、愛情に悲しみといったものは、すべてその言語が持つ文法とセンテンス、修辞によって構成され、現在テレビから流れる言語でそれらを思い出すことは難しかった。だからこそ、あなたは今ここでこうして座っているしかなかった。耳鳴りがもち込む過去の記憶にしがみつかれ、現在をかき乱されるのをジッと待つしかなかったのだ。」

こうした態度がもたらす影響は、後の3章19節で「ぼく」の視点から次のように語られる。

「父さんはこれまで一度だって自分の話なんかしたことがなかった。兄弟や両親のことさえ語ろうとしなかったし、記憶のなかではほとんど物語や昔話をしてくれなかった。ぼく自身がそうした物語のない少年時代を送ってきたわけで、父さんの物語について語ることはできないし、それはただ想像するしかなく、またそれを本人に尋ねてみようと思ったことすらなかった。」

最終的に父は行方不明になってしまって「ぼく」との会話は描かれない。また、恋人だったアリスも、結婚の話をしても態度がはっきりしない「ぼく」に業を煮やしたのか、別れてしまう。

なぜ「ぼく」は父やアリスとの関係を一段階進めることをためらったのか。「父と子」や「夫と妻(と子供)」といった関係を築くことをためらうのか。自分は「父」の後ろに「日本」、「アリス」の後ろに「西洋」の姿を見た。「ぼく」自身の立ち位置が定まっていない状態で、それらに取り込まれるわけにはいかないのだろう。(最後まで一緒にいたのが台湾語の使い手である「母」であることは示唆的だ。)

とはいえ、人というものは、その人がいなくなったからといって記憶を抹消できるほど都合良くできてはいない。むしろ、より強く意識させられるものだ。

この作品では、その人の過去を想像するという方法で、関係を結び直そうと試みている。もちろん、想像は個人的な行為である。しかし、主体的な行為でもある。作者によれば、実際に父の写真を見たことがこの小説を書くきっかけになったという。

自分の周囲には、いまだ目に触れられていない家族の写真がまだまだあるはずだ。その写真を見たとき、想像に至ることはできるのか、断絶を乗り越える勇気があるか。そんなことを考えた。