『もうひとつのエデン』ポール・ハーディング
アメリカ東海岸の最北州のメイン州、その沖にマラガ島という島がある。アメリカ独立戦争後の18世紀の末に、一組の夫婦が移住する。夫はアフリカ系、妻はアイルランド系。夫妻の子孫たちは島で生活を続け、20世紀初頭にメイン州の命令により立ち退きを余儀なくされた。しかし、その立ち退きは、単なる転居ではなく、家を解体し、墓まで掘り起こされるほどの苛烈なものであった。本書は、その一連の出来事を題材に、旧約聖書のエピソードを交えつつ、島の人々の生活と人生を描いた作品である。
作品ではマラガ島はアップル島とされており、中心となる家族は、当初に移住してきた夫妻の血を引くハニー家の人々である。現在は老齢のエスター、その息子のイハ、イハの息子のイーサンの三世代が中心人物である。また、アメリカ本土から島に渡ってきた人々もおり、その出自もヨーロッパ系であったりネイティブアメリカンであったりと多様である。島の生活は過酷で、冬は十分な食糧もなくなる。本土では南北戦争や奴隷解放宣言などの出来事が起こるが、島の人々は肌の色をはじめ、さまざまな違いを認め合い、身を寄せ合って生活していた。
あるとき、白人の宣教師が島に学校を建設する。島の子供たちは宣教師によって絵画や語学、数学の才能を見出されるに至るが、州政府は、島の住民は恥ずべき存在と判断し、立ち退きを進めていく。子供たちの中で「絵画の技術」という価値を持ち、何よりも本土で受け入れられやすい特徴-「肌が白く見える」という外見-をもつイーサンだけは島外の資産家に預けられるが、女中の少女と関係を持ったことから出奔し、そのまま行方不明になってしまう。
島の人々は州政府の前に無力である。若き日に自らが作り上げた家を解体していくイハ、島の歴史を一人で背負って振り返るエスターの姿が、美しく、そして悲しい。
本書から得られること
歴史的事件を扱っているが、本書の文章は、時代を超えて移動し、さまざまな登場人物の内面の声を描き出す。中でもエスターの人生は壮絶なものがある。作中から遠く離れた我々にも、その運命の重さは感じ取れるだろう。
18世紀から20世紀にかけて島で昔ながらの生活が続く一方、本土の生活は大きく変わっていく。生活に差が生じるにつれて、本土から島への視線も変化する、もちろん、蔑視の方向にである。その背景には当時のアメリカ社会で有力な思想であった優生学がある。
優生学は学問的に否定されても、その思想は連綿と続いている。「こんな人生や生活を送るくらいなら、島を去った方がいいのではないか」と思った人もいるだろう。しかし、退去を余儀なくされる人、犠牲となる人も同じく人間であり、家族の歴史を背負っている存在である。人々の背後にある歴史を見つめる目を持つことは、他者に対する自分自身のアンテナを拡張することにつながる、本書はその一助になるに違いない、そんなことを思った。
補足
本書には近親婚などのエピソードがあるが、当時の新聞が意図的に流布した話であるとのこと。あくまでも事実をもとにしたフィクションということだろう。
『新しいリベラル』橋本努/金澤悠介 (短評)
現代日本で「リベラル」と聞くとどのような人々を想像するだろうか。自民党を批判して共産党や立憲民主党を支持する人々だろうか、「戦後民主主義」の価値観を内包して護憲を主張する人々だろうか、子育て施策の充実を望む人々だろうか、女性への支援を希望する人々だろうか。
先日行われた参議院議員選挙では与党の自民党が議席を減らすことになったが、その後、これまで自民党を批判してきた人々は、自民党総裁でもある石破茂首相を支持するような発言を始めた。石破辞めるなデモというものも行われた。リベラルにとって、自民党は諸悪の根源ではなかっただろうか。
いったいリベラルとは何なのか。本書はこれまで「リベラル」の名のもとに一括りにされてきた概念を歴史的な視点と統計的な手法を用いて分析し、いわゆる「戦後民主主義」と親和的な「従来型リベラル」には該当しないが、さりとて「保守」ではない、まさに「新しいリベラル」と称すべき人々を見出していく。
「新しいリベラル」の特徴は「社会的な投資」に重きを置くことである。「従来型リベラル」が、高齢者や障害者などの社会的な弱者への生活保障を重視するのに対し、「新しいリベラル」は「全ての世代」への「投資」を重視する。この「全ての世代」には、社会的弱者だけではなく、現役世代や学生・児童、さらにはこれから生まれてくる子供や孫も含まれる。そして「投資」とは、個人がより良い生活を送ることができるように支援するための施策を意味する。具体的には、学ぶ意欲のある人々への奨学金、出産・子育て世帯への支援、子供や孫世代への教育や生活の充実といった施策である。そしてそれらを実施する主体が行政である以上、反政府主義といった立場を採る必要がない。
思うに「新しいリベラル」の考え方の基底には、人間は成長できるという考え方がある。「従来のリベラル」にとっては甘い考え方に見えるかもしれない。個人の成長よりも現に困っている人の救済を優先せよ、と考えるかもしれない。ただ、人々の生活の充実を望むなど、共有できる考え方も多いはずだ。本書は今年の参議院議員選挙前に出版されているが、今回の選挙結果を踏まえると、まさに「リベラル」を自任する人々にこそ、本書は手に取って読まれるべきではないか、そんなことを思った。
『サラブレッドはどこへ行くのか』平林健一
本書の目的
サラブレッドの生涯における需要な事象を、有識者や関係者の言葉を紹介しつつ、複合的に解説し、日本の引退馬問題の解決の糸口を探っていく。
興味深い点
競馬関係者のリアルな証言と育成の実情
引退した馬を引き取る人の存在
引退馬の保護活動や活用事業の内容
競走馬育成ゲームの『ダビスタ』こと『ダービースタリオン』の話から始める。
『ダビスタ』で馬の死の場面が描かれるのは「牧場で飼養する馬が寿命を迎えたとき」と「レース中の事故が原因で安楽死処分になったとき」である。
これらはランダムに起きるのだが、プレイヤーの意思で馬を手放すこともできる。その方法は、牝馬や入厩前の仔馬であれば売却になる。また、競走馬であれば、G1レースに勝った牡馬は種牡馬として同様に売却できる。一方、G1に届かなかった馬は乗馬として引退していく。
ゲームを続けていると「乗馬になった」という場面は頻繁に出てくるので、自分などは気にもならなくなったのだが、著者は気づいてしまった。日本にそんなに乗馬クラブはあるのか、と。また、自身がファンだった馬が引退後に「行方不明」になっていることに衝撃を受ける。
本書は、自らも競馬を愛好する著者が、様々な競馬関係者への取材を通して、競走生活から引退した「引退馬」の現状を描き出したノンフィクションである。
第1章は導入だが、ここで競馬の事業規模が挙げられていることに注目したい。2023年度の売上は約3兆2500億円で、このうちの10%が第一国庫納付金となり、別に集計した第二国庫納付金と合わせて国に収められる。JRAのサイトによると、その合計額は約3,580億円となっている。ちなみに、ユニクロで知られるファーストリテイリングの2024年8月期の売上収益が3兆1,000億円程度だったという。
第2章はレースに出るまでの育成の過程、第3章は競走馬生活が説明される。中央競馬では未勝利馬のレースは限られており、種牡馬になるどころか1勝すること自体が狭き門である。人間も気が気でないが、馬の方もケガと隣合わせの生活で、なんと競走馬の約90%がストレス性の胃潰瘍になっているというから驚きである。
第4章は引退後の馬の行方である。種牡馬になれなかった牡馬はもちろん、高齢になった繁殖牝馬も、受胎率の低下や、仔馬への能力的な悪影響への懸念から「引退」がある。引退後の進路としては『ダビスタ』のように乗馬になるほか(ただし、ハイレベルの大会ではサラブレッドではなく、乗馬専用の品種が活躍しているという。)、イベント用の馬やセラピー馬としての道がある。
もっとも、以上の話は競馬ファンであればある程度知っていることかもしれない。著者自身も「以上の進路を歩むことは「当たり前」のことではない」と述べており、第5章からが本書の読みどころとも言える。
第5章以降は、引退後の馬に携わる人々の証言が紹介される。冒頭の著者の「気づき」のとおり乗馬クラブは無限にあるわけではない。本当に乗馬となったとしても、その先のサードキャリアまでは補足されていない。著者は2018年度で4000頭のサラブレットが屠畜されたと推測する。そして、忘れてはならないのはこれだけの馬を引き取り、食肉につなげていく人たちの存在だろう。
そもそも、競馬の世界から引退した馬は経済的な価値が大きく下がってしまう。食肉に至るのも、その馬の経済的な価値が、食肉の価値を下回ってしまうからだ。しかしながら、このような現実を見据えたうえで、それでもサラブレットの命を守ろうとする人々もいる。例えば、設備や人件費の効率化で低廉な預託料を実現した養老牧場がある。また、馬の個性を見出してCMに出演させるなど、引退馬に新たな経済的価値を付与した事業者もいる。
動物愛護の観点からは、まだまだ不十分に見えるだろう。JRAも引退馬に関する取組みを進めてはいるものの、様々な事情から引退馬の支援頭数を示すことはしていない。
もっとも、著者の言うとおり、サラブレッドは人間が作り上げた社会の中で経済的な役割を持って生まれてきている。その現実を見ないで議論しても建設的なものにはならない。著者とともに悩み、馬に携わる人々の活動を知り、自分にできる取り組みを積み上げていくこと、そしてその流れを絶やさないことが、競馬ファンに求められている態度だろう。サラブレッドのあの細い脚を支えているのは、紛れもない我々人間であることを忘れてはならない。
『消費者と日本経済の歴史』満薗勇
数年後には「そういえばそんなこともあったね」という話になると思うのだが、今年(2024年)の8月から9月にかけて米不足という事態が生じた。もともと米の流通の端境期だったところに、災害発生やインバウンド需要などの事情が重なったらしいが、詳細はよくわからない。というのも、コンビニではおにぎりが引き続き並んでいたし、ファミレスや牛丼チェーンでも料理は提供されていた。あくまでも、店頭販売用の米が一時的に少なくなったということなのだろう。
このような状況の中で「いずれ新米が流通するのだから、焦って高いお金を出して買う必要はない。」という声が上がった。自分もそうだなと思った。もし、家族が買おうとしたら「ちょっと待て」と言っただろう。ネットなどでは、焦って買う人々を嘲笑するような意見もあった。とはいえ、不足だ不足だと言われると買いたくなる心情は理解できる。このようなときに、消費者はいかなる行動をとるべきなのか。素直に流通が回復するまで待つ人は「賢い消費者」なのだろうか。スーパーに駆け込んで買う人は「賢くない消費者」なのだろうか。そもそも「賢さ」とは何なのか。
自分は、この場面での「賢さ」は、「消費者としてあるべき行動」をどの程度まで忠実に実施できるかの指標であると思った。では「消費者としてあるべき行動」とは何で、いつ頃生まれた概念なのだろうか、誰がそれを規定しているのだろうか。このような疑問を持ったときに手掛かりになるのが本書だ。
本書は戦後日本の経済史において「消費者」が置かれた立場を、60年代の高度成長期、70年代半ばからの安定成長期、80年代以降のバブル期及び不況期の三つの時代区分ごとに検討していく。その際、「消費者」に代わる言葉として「生活者」や「お客様」という言葉が生まれたことに着目している。また、消費者の立場を分析するにあたって次の三つの観点を使用している。
①消費者の利益:製品を安価に得られること
②消費者の権利:事業者に対して製品の安全性や情報公開等を求める権利のこと
③消費者の責任:消費者が経済活動や環境に影響を持つ存在とみなすこと
上の三つの時代区分は、①から③のどの観点が色濃く出た時代なのだろうか。
第一章は1960年代から70年代初頭までの時期を扱うが、実は1950年代には早くも「消費者」に関する議論が生じていた。アメリカの影響もあり、消費者は生産品の決定権を持ち、自業者は消費者利益の追求に邁進すべきであるとの言説が生まれた。さらには「消費者は王様である」という表現も見られた。まさに①の観点の時代である。60年代になると身近に次々と新製品が誕生するようになる。
本書には出てこないが、例えば、馴染み深いお菓子の名前と発売された年を挙げてみる。
1961年:マーブルチョコレート
1962年:ポテトチップス、プリッツ
1964年:カッパえびせん
1966年:ポッキー
1968年:カール
お菓子を例示したが、他の製品も同様であろう。
一方で、企業の勧めるままではなく、自ら吟味して購入を決定すべきであるというキャンペーンも生じた。冒頭で述べた「賢い消費者」の誕生である。ただし、その「賢さ」は、企業の広報戦略に踊らされることなく、計画的に買い物をする態度を指すものであった。RPGので言えば、我が身を守るためのステータスと言ったところか。
第二章は1970年代半ばから80年代半ばの時期を扱う。オイルショックからバブル景気前の「安定成長」の時期である。この時期は、公害による悲劇を目の当たりにして大量生産への反省(①の消費者利益の見直しと、③の消費者責任の問い直し)が生まれる一方、生活物品が行き渡ったことも相まって、個性的な生活を志向する態度が生まれた。そのよう中で誕生したのが「生活者」という言葉である。
自業者団体も、消費者と新しい関係を構築しようとする団体が登場する。「生活クラブ」と「大地を守る会」だ。前者は生活クラブでの購入や活動を通じて消費者の加害責任を乗り越えることを志向し、後者は有機農業によって資本主義を問い直すとともに消費者と生産農家の互恵的関係の構築を目指した。そして最後に紹介されるのは、この時期を語る上で欠かせない堤清二である。彼が残した文章をもとに、堤の事業目的に「生活者の視点」で資本主義の論理を問い直す意図があったことを示していく。
第三章は1980年代から2000年代の時期を扱う。バブル崩壊とその後の経済的停滞の中で「消費者」はいかに変容したのだろうか。本章で注目されるのは「お客様」という言葉である。この言葉には、生身の人間をイメージしやすくする効果があるという。そして「お客様の立場」を最も重視したと言える存在がコンビニエンスストアであった。いつでも新鮮な物を購入できるコンビニエンスストアは便利であるが、それが厳しい労働環境や大量の廃棄物の上に成り立っていることは、もはや周知の事実となっている。
このように、① の消費者の利益を極限まで追求する業態がある一方、企業の中には「お客様相談室」を設置し、消費者の意見を製品に反映させることで、市場における顧客対応とマーケティング戦略の両立を図るものもあった。
最終章では、推し活に代表される応援消費にも触れられる。応援消費に社会を変える力はあるのだろうか。残念ながら過去の歴史を踏まえると、贈与性に依存した取引は不安定になるとの見立てである。本書では出てこないが、ふるさと納税制度が返礼品競争を招来し、制度の終わりが見えない状況になっているというのも同じような理屈で説明できるかもしれない。
ところで、先日放送されていたNHKの『映像の世紀』は中内功と堤清二の特集であった。この二人は本書にも登場する。番組は、二人の事業展開とその結末を辿る内容であったが、ダイエーの経営悪化が顕在した90年代に、中内が「生活者」という言葉を使っていたのが印象的だった。偶然なのかもしれない。だが、仮に意図して使っていたのであれば、彼は「消費者」の時代が過ぎ去ったことを自覚していたのだろうか、また、他の企業が「お客様」という言葉を使用することについて、どのような思いで見ていたのであろうか。
一方の堤清二の言葉では「顧客自身が、潜在的に欲していたものに気づくのであればよいが、企業によって、欲しくもなかったものを「欲しい」とされてしまうことはいかがなものか」という趣旨の発言が記憶に残った。購入履歴からお勧め商品をピックアップするAmazonのように、画面で初めて見る商品であるにも関わらず、それが以前から欲しかった商品であるかのように錯覚してしまう仕組みは既に存在している。消費者の利益を極限まで追求した先に待っているのは、消費者の主体性の喪失なのだろうか。
こういった話は自分の手に余るのでここまでとするが、そもそも本書を読んでいなければ、番組を見ても、通り一遍の感想を持つくらいがせいぜいで、特に記憶に残らなかっただろう。本書を読んだおかげで、日本の経済を考える上での新たな視点を確かに得られたのではないか、そんなことを思った。
『セミコロン』セシリア・ワトソン
自分の今後の人生で英語の文章を書くことはあるかもしれないが、その文章でセミコロンを用いることはない。これは断言してもいい。しかし、そもそも、授業で教わった記憶がない。仮定法も教わった、分詞構文も教わった、SVOCの分析は散々やった、でもセミコロンの使い方は聞いた覚えがない。喉に刺さった小骨とは言わないまでも、なかなか取れない爪の垢程度の引っかかりはある。セミコロンとは何なのか。
その答えは、ピリオドとコンマの中間といった役割を持つ記号、という意味らしい。おそらく、この「中間」が厄介な言葉で、セミコロンについて、本書の冒頭に登場するポール・ロビンソンという人は「自分で使おうものなら、人の道に悖る行為のようにすら感じる」と、作家のドナルド・バーセルミに至っては「醜い、それも犬の腹についたダニのように」とまで述べている。(この形容にはさすが作家である、と感心してしまった。)
そんな一部の人からは蛇蝎の如く嫌われるセミコロン。本書はセミコロンの誕生からその後の文法の歴史とともに、そこから派生して議論やコミュニケーションのあり方まで論じるものである。
セミコロンが生まれたのはルネサンス期、文章の作成方法もいろいろと試行錯誤していた頃で、当時からある程度の休止を意味する役割があった。
この使い方のルールが定まるのが自然科学が発達する19世紀。まるで数式のように文法にも厳密性が求められるようになる。ときの学者はセミコロンにも厳格な定義を与えて役割を明確化しようとする。現代でもそのようなルール、すなわち文法のマニュアル本は版を重ねているものの、英語のネイティブであってもセミコロンに苦手意識を持つ人はいるという。
だが、そもそも文法規則は何のためにあるのだろうか。規則に合わない文章を排除するためなのか、書いた人の無知をあげつらうためにあるのだろうか。もちろん、そうではない。規則を絶対視するのではなく、規則の枠を超えて言葉そのものの豊かさを考えていく方がよいのではないか。
本書の半分くらいは文法の歴史、もう半分は、セミコロンをきっかけに判断が分かれた裁判事例とセミコロンを用いた実際の文章の考察となっている。日本でも読点の置かれた位置で法解釈が揺れてしまい、判決や処分に影響している事例は実はあるのではないだろうか。また、文章の考察の章では、ネイティブにおけるセミコロンの感じ方の一端を知ることができて興味深いものがあった。
文法を過度に重視する傾向は日本語でも同様の傾向があると思う。ビジネスでも論文でも「書き方」の指南書があるのは、それだけルールを破った時のリスクを恐れているからであろう。ただ、日本語自体は本来はもっと優しいものではないだろうか。勇気を振り絞って書かれた言葉はルールの枠を超えて、相手に届くだろうし、自分も文章を書いた人の思いを感じられるようになりたい、そんなことを思った。
『足利将軍たちの戦国乱世』山田康弘
日本史の記憶を辿ってみる。室町幕府の将軍といえば足利尊氏に始まり、南北朝統一と金閣寺の義満、くじ引き将軍こと恐怖政治の義教に、応仁の乱と銀閣寺の義政、戦国時代に暗殺された義輝と、最後の将軍の義昭あたりが記憶にある。
実際には他にも将軍がいるのだが、どうにも彼らの影が薄い。特に足利義政から足利義輝までの将軍は、成人した人物が何人もいるものの、高校の日本史の教科書に彼らの名前は出てこない。一般的な教科書では、応仁の乱で将軍の権威が失墜した、との記述があって、それ以降は戦国大名たちの時代に移ることになる。
本書はそのような時代にも確かに存在した将軍たちに光を当て、足利将軍の性格についてわかりやすく解説したものである。
一読して感じるのは、応仁の乱後の戦国時代と呼ばれる時代にあっても、将軍の地位がなおも重視されていたことである。しばしば、有力大名の言いなりであったと言われるものの、それは将軍という職が、独自の軍事力を持たなかったという宿命的な構造によるものであった。有力大名は自らの権威や交渉といった実利を求めて将軍に接近し、将軍はそのことに十分に自覚的であったのである。そして自身の安全と権威を確保するためであれば、将軍は昨日まで対立していた相手と手を組むことは厭わなかった。足利義稙、義澄、義晴などは京都を追われたり、戦いに敗北するなどいつ死んでもおかしくはなかったのだが、殺害されるという最悪の自体だけは免れている(義稙は実際に暗殺されそうになっているが…)。
本書は各将軍を評伝的に描いており、十分に読みやすく、足利将軍のイメージに厚みを与えてくれる。各章の巻末にはコラム的に当時の資料が掲載されており面白い。学校の日本史の授業だけでは満足できない戦国時代付きの中高生には特におすすめできるだろう、そんなことを思った。
『ジャコブ、ジャコブ』ヴァレリー・ゼナッティ
著者のヴァレリー・ゼナッティは、フランス生まれだが、彼女の両親は、フランス植民地時代のアルジェリアで生まれており、アルジェリアの独立に伴ってフランス本国に移住したそうだ。このような人々を「ピエ・ノワール」というらしい。ゼナッティ自身は、10代でイスラエルに移住し、そこで兵役を経験したのちにフランスに戻り、執筆活動を始める。日本では絵本が出版されているが、小説はこれが初の出版である。原著は2014年に発行されている。
本書の主人公であるジャコブのモデルは(おそらくは)彼女の祖父の弟で、第二次世界大戦で若くして戦死した。本書は二部構成で、第一部は、そのジャコブの目を中心として戦時中のアルジェリアの社会やユダヤ人の家庭、軍隊生活を描く。第二部は、ジャコブの死が家族にもたらした動揺、アルジェリアとフランスとの間で行われた戦争、そしてそれに巻き込まれる一家の運命を描いている。
ストーリー
アルジェリアのコンスタンティーヌの街に暮らすユダヤ人の青年のジャコブは、家父長制の強い家庭にあっては例外的に優しく、陽気な青年。母や義理の姉の愛情を受け、年少の甥や姪にとっては優しい兄のような人物でもある。学校の成績も良く、19世紀のフランスの詩人を愛好する文学青年でもある。アルジェリアのユダヤ人は戦時中の一時期は学校からも追われるが、戦況が好転にするに伴ってフランス軍の兵士として召集されるようになる。物語は入営の前日から始まる。
当時のアルジェリアは、フランス本国にルーツを持つ人々と、ユダヤ系の人々、ムスリムの人々が混在して生活していた。軍隊でジャコブは自身とは異なるグループの兵士とも戦友になり、過酷な戦闘を前にして自らが培ってきた人間性との相剋に苦悩する。ジャコブの苦悩がストレートに描かれるので、知らず知らずのうちに彼の内面と声と共鳴していくことになる。読者としては無事の帰還を祈らずにはいられないが、残念ながら戦死してしまう。
第二部の前半は、ジャコブの死が家族にもたらした動揺が描かれる。中でも母のラシェルの心情は痛ましいものがある。
戦後のアルジェリアの社会ではフランス系住民とムスリムとの対立が先鋭化し、戦争に発展していく。本書でも描かれているが、両住民の統合の象徴でもあった歌手のシェイク・レモンの暗殺はユダヤ人社会に決定的な影響を与え、多くの住民がフランス本国に移住することになったという。
物語は1969年のラシェルの死で閉じられることになるが、ジャコブの思い出は最後に至って次の世代に引き継がれていくことになる。このあたりの循環するような描写は美しいと思った。
続いて、本書の特徴のようなものをいくつか挙げておきたい。
文体
本書の特徴として、まずは文体が挙げられる。
前述のように第一部では、ジャコブの視点から社会や心象を述べるだけではなく、それぞれの登場人物の行動も第三者的な視点で描く。さらに、その視点はジャコブ以外の登場人物の内面にも立ち入り、彼女らの内なる声を読者に響かせる。例えるならば、ヘッドホンをセットして、自分も一緒に作者の語りに耳を傾けるといった形であろうか。
一方、第二部は過去形の文体になる。第一部の期間がジャコブの入隊とその死までという短い期間だったのに対し、第二部はその死から数十年後の期間が描かれる。第一部で登場した人物も、ある者は亡くなり、ある者は独立していくので、否が応でも時の流れを感じさせる。こちらは、ヘッドホンをセットして、作者の説明を耳にしながらアルバムのページをめくっていくという感覚に近いかもしれない。
料理
料理や食べ物についての記述が多いことも本書の特徴だろう。47ページには次のような描写があり、料理が軍隊と家庭を繋ぐ糸であることが分かる。
最初の幾晩かはそれでも母親たちが作ってくれた焼き菓子やファルシでひどくまずい食事もなんとかしのいでいたが、それがとうとう底をついてしまうや否や、過去を現在につなげる糸が切れてしまった。
また、母のラシェルがジャコブの消息を尋ねる際は、差し入れとして具体的な食べ物を持参しており、その準備の様はこんな具合である。
義娘よ、棚に入っているものを全部、お出し、アニス入りパン、モンテカオ、セモリナのケーキ、それにもちろんパンと、クロッケと、ファルシもだ、それを全部、二つのカゴに入れておくれ、ジャコブに持っていくんだ。
地元の食べ物なのでイメージがしづらいが、自分の好きな日本のお菓子を入れてみれば、息子を案ずる母の思いがよくわかると思う。
その他メモ
- エピグラフにはカミュの『最初の人間』の一節が引用されている。カミュは1913年生まれなので、仮にジャコブがもう少し早く生まれていたら、アルジェリアからフランスに渡ってカミュと接点を持ったかもしれないなと空想してみた。
- ジャコブはすでに出発していたとはいえ、ラシェルが軍の中尉から話を聞いて兵舎に到達できたというのが意外。フランス軍だからなのか。
- 実際のところ、行軍中のトイレ問題はどのように対処していたのだろう。
- 「ジャコブ抜きで戦えるんだったら、なんだって最初から招集したのさ」。日本ではあまり見かけない言い方のような気がする。
- アルジェリア独立戦争、調べれば調べるほど、悲劇が次々に出てきそう。フランス社会に与えた影響も大いに気になる。
結び
海外の小説を読む楽しみは、自分とは異なる環境にある人々が、何を考え、どのような生活を送っているのかを知ることができる点にある。おそらく、自分も含めて多くの日本の読者にとって、第二次世界大戦中のアルジェリアの青年の人生とその家族の生活、また、アルジェリアの独立戦争とユダヤ人社会の運命というものは未知のものであったに違いない。
そういった「自分には関係ない」と思いがちな社会を舞台にしつつも、本書が描いた登場人物の内面は人間にとって普遍的なものがあり、時代や地理を超えて読者の心と響き合う。読後は自分の中にも「ジャコブ、ジャコブ」という声が響いている。そんなことを思った。
ちなみにYoutubeでは作者自身の解説が見られる。執筆の背景など興味深い。