『セミコロン』セシリア・ワトソン

 自分の今後の人生で英語の文章を書くことはあるかもしれないが、その文章でセミコロンを用いることはない。これは断言してもいい。しかし、そもそも、授業で教わった記憶がない。仮定法も教わった、分詞構文も教わった、SVOCの分析は散々やった、でもセミコロンの使い方は聞いた覚えがない。喉に刺さった小骨とは言わないまでも、なかなか取れない爪の垢程度の引っかかりはある。セミコロンとは何なのか。

 その答えは、ピリオドとコンマの中間といった役割を持つ記号、という意味らしい。おそらく、この「中間」が厄介な言葉で、セミコロンについて、本書の冒頭に登場するポール・ロビンソンという人は「自分で使おうものなら、人の道に悖る行為のようにすら感じる」と、作家のドナルド・バーセルミに至っては「醜い、それも犬の腹についたダニのように」とまで述べている。(この形容にはさすが作家である、と感心してしまった。)

 そんな一部の人からは蛇蝎の如く嫌われるセミコロン。本書はセミコロンの誕生からその後の文法の歴史とともに、そこから派生して議論やコミュニケーションのあり方まで論じるものである。

 セミコロンが生まれたのはルネサンス期、文章の作成方法もいろいろと試行錯誤していた頃で、当時からある程度の休止を意味する役割があった。

 この使い方のルールが定まるのが自然科学が発達する19世紀。まるで数式のように文法にも厳密性が求められるようになる。ときの学者はセミコロンにも厳格な定義を与えて役割を明確化しようとする。現代でもそのようなルール、すなわち文法のマニュアル本は版を重ねているものの、英語のネイティブであってもセミコロンに苦手意識を持つ人はいるという。

 だが、そもそも文法規則は何のためにあるのだろうか。規則に合わない文章を排除するためなのか、書いた人の無知をあげつらうためにあるのだろうか。もちろん、そうではない。規則を絶対視するのではなく、規則の枠を超えて言葉そのものの豊かさを考えていく方がよいのではないか。

 本書の半分くらいは文法の歴史、もう半分は、セミコロンをきっかけに判断が分かれた裁判事例とセミコロンを用いた実際の文章の考察となっている。日本でも読点の置かれた位置で法解釈が揺れてしまい、判決や処分に影響している事例は実はあるのではないだろうか。また、文章の考察の章では、ネイティブにおけるセミコロンの感じ方の一端を知ることができて興味深いものがあった。

 文法を過度に重視する傾向は日本語でも同様の傾向があると思う。ビジネスでも論文でも「書き方」の指南書があるのは、それだけルールを破った時のリスクを恐れているからであろう。ただ、日本語自体は本来はもっと優しいものではないだろうか。勇気を振り絞って書かれた言葉はルールの枠を超えて、相手に届くだろうし、自分も文章を書いた人の思いを感じられるようになりたい、そんなことを思った。

 

『足利将軍たちの戦国乱世』山田康弘

 日本史の記憶を辿ってみる。室町幕府の将軍といえば足利尊氏に始まり、南北朝統一と金閣寺の義満、くじ引き将軍こと恐怖政治の義教に、応仁の乱銀閣寺の義政、戦国時代に暗殺された義輝と、最後の将軍の義昭あたりが記憶にある。

 実際には他にも将軍がいるのだが、どうにも彼らの影が薄い。特に足利義政から足利義輝までの将軍は、成人した人物が何人もいるものの、高校の日本史の教科書に彼らの名前は出てこない。一般的な教科書では、応仁の乱で将軍の権威が失墜した、との記述があって、それ以降は戦国大名たちの時代に移ることになる。

 本書はそのような時代にも確かに存在した将軍たちに光を当て、足利将軍の性格についてわかりやすく解説したものである。

 一読して感じるのは、応仁の乱後の戦国時代と呼ばれる時代にあっても、将軍の地位がなおも重視されていたことである。しばしば、有力大名の言いなりであったと言われるものの、それは将軍という職が、独自の軍事力を持たなかったという宿命的な構造によるものであった。有力大名は自らの権威や交渉といった実利を求めて将軍に接近し、将軍はそのことに十分に自覚的であったのである。そして自身の安全と権威を確保するためであれば、将軍は昨日まで対立していた相手と手を組むことは厭わなかった。足利義稙、義澄、義晴などは京都を追われたり、戦いに敗北するなどいつ死んでもおかしくはなかったのだが、殺害されるという最悪の自体だけは免れている(義稙は実際に暗殺されそうになっているが…)。

 本書は各将軍を評伝的に描いており、十分に読みやすく、足利将軍のイメージに厚みを与えてくれる。各章の巻末にはコラム的に当時の資料が掲載されており面白い。学校の日本史の授業だけでは満足できない戦国時代付きの中高生には特におすすめできるだろう、そんなことを思った。

 

  

『ジャコブ、ジャコブ』ヴァレリー・ゼナッティ

 著者のヴァレリー・ゼナッティは、フランス生まれだが、彼女の両親は、フランス植民地時代のアルジェリアで生まれており、アルジェリアの独立に伴ってフランス本国に移住したそうだ。このような人々を「ピエ・ノワール」というらしい。ゼナッティ自身は、10代でイスラエルに移住し、そこで兵役を経験したのちにフランスに戻り、執筆活動を始める。日本では絵本が出版されているが、小説はこれが初の出版である。原著は2014年に発行されている。

 

 本書の主人公であるジャコブのモデルは(おそらくは)彼女の祖父の弟で、第二次世界大戦で若くして戦死した。本書は二部構成で、第一部は、そのジャコブの目を中心として戦時中のアルジェリアの社会やユダヤ人の家庭、軍隊生活を描く。第二部は、ジャコブの死が家族にもたらした動揺、アルジェリアとフランスとの間で行われた戦争、そしてそれに巻き込まれる一家の運命を描いている。

ストーリー

 アルジェリアコンスタンティーヌの街に暮らすユダヤ人の青年のジャコブは、家父長制の強い家庭にあっては例外的に優しく、陽気な青年。母や義理の姉の愛情を受け、年少の甥や姪にとっては優しい兄のような人物でもある。学校の成績も良く、19世紀のフランスの詩人を愛好する文学青年でもある。アルジェリアユダヤ人は戦時中の一時期は学校からも追われるが、戦況が好転にするに伴ってフランス軍の兵士として召集されるようになる。物語は入営の前日から始まる。

 当時のアルジェリアは、フランス本国にルーツを持つ人々と、ユダヤ系の人々、ムスリムの人々が混在して生活していた。軍隊でジャコブは自身とは異なるグループの兵士とも戦友になり、過酷な戦闘を前にして自らが培ってきた人間性との相剋に苦悩する。ジャコブの苦悩がストレートに描かれるので、知らず知らずのうちに彼の内面と声と共鳴していくことになる。読者としては無事の帰還を祈らずにはいられないが、残念ながら戦死してしまう。

 第二部の前半は、ジャコブの死が家族にもたらした動揺が描かれる。中でも母のラシェルの心情は痛ましいものがある。

 戦後のアルジェリアの社会ではフランス系住民とムスリムとの対立が先鋭化し、戦争に発展していく。本書でも描かれているが、両住民の統合の象徴でもあった歌手のシェイク・レモンの暗殺はユダヤ人社会に決定的な影響を与え、多くの住民がフランス本国に移住することになったという。

 物語は1969年のラシェルの死で閉じられることになるが、ジャコブの思い出は最後に至って次の世代に引き継がれていくことになる。このあたりの循環するような描写は美しいと思った。

 続いて、本書の特徴のようなものをいくつか挙げておきたい。

文体

 本書の特徴として、まずは文体が挙げられる。

 前述のように第一部では、ジャコブの視点から社会や心象を述べるだけではなく、それぞれの登場人物の行動も第三者的な視点で描く。さらに、その視点はジャコブ以外の登場人物の内面にも立ち入り、彼女らの内なる声を読者に響かせる。例えるならば、ヘッドホンをセットして、自分も一緒に作者の語りに耳を傾けるといった形であろうか。

 一方、第二部は過去形の文体になる。第一部の期間がジャコブの入隊とその死までという短い期間だったのに対し、第二部はその死から数十年後の期間が描かれる。第一部で登場した人物も、ある者は亡くなり、ある者は独立していくので、否が応でも時の流れを感じさせる。こちらは、ヘッドホンをセットして、作者の説明を耳にしながらアルバムのページをめくっていくという感覚に近いかもしれない。

料理

 料理や食べ物についての記述が多いことも本書の特徴だろう。47ページには次のような描写があり、料理が軍隊と家庭を繋ぐ糸であることが分かる。

最初の幾晩かはそれでも母親たちが作ってくれた焼き菓子やファルシでひどくまずい食事もなんとかしのいでいたが、それがとうとう底をついてしまうや否や、過去を現在につなげる糸が切れてしまった。

 また、母のラシェルがジャコブの消息を尋ねる際は、差し入れとして具体的な食べ物を持参しており、その準備の様はこんな具合である。

義娘よ、棚に入っているものを全部、お出し、アニス入りパン、モンテカオ、セモリナのケーキ、それにもちろんパンと、クロッケと、ファルシもだ、それを全部、二つのカゴに入れておくれ、ジャコブに持っていくんだ。

 地元の食べ物なのでイメージがしづらいが、自分の好きな日本のお菓子を入れてみれば、息子を案ずる母の思いがよくわかると思う。

その他メモ
  • エピグラフにはカミュの『最初の人間』の一節が引用されている。カミュは1913年生まれなので、仮にジャコブがもう少し早く生まれていたら、アルジェリアからフランスに渡ってカミュと接点を持ったかもしれないなと空想してみた。
  • ジャコブはすでに出発していたとはいえ、ラシェルが軍の中尉から話を聞いて兵舎に到達できたというのが意外。フランス軍だからなのか。
  • 実際のところ、行軍中のトイレ問題はどのように対処していたのだろう。
  • 「ジャコブ抜きで戦えるんだったら、なんだって最初から招集したのさ」。日本ではあまり見かけない言い方のような気がする。
  • アルジェリア独立戦争、調べれば調べるほど、悲劇が次々に出てきそう。フランス社会に与えた影響も大いに気になる。
結び

 海外の小説を読む楽しみは、自分とは異なる環境にある人々が、何を考え、どのような生活を送っているのかを知ることができる点にある。おそらく、自分も含めて多くの日本の読者にとって、第二次世界大戦中のアルジェリアの青年の人生とその家族の生活、また、アルジェリア独立戦争ユダヤ人社会の運命というものは未知のものであったに違いない。

 そういった「自分には関係ない」と思いがちな社会を舞台にしつつも、本書が描いた登場人物の内面は人間にとって普遍的なものがあり、時代や地理を超えて読者の心と響き合う。読後は自分の中にも「ジャコブ、ジャコブ」という声が響いている。そんなことを思った。

 ちなみにYoutubeでは作者自身の解説が見られる。執筆の背景など興味深い。

『ジャコブ、ジャコブ』 ヴァレリー・ゼナッティ - YouTube

『ラウリ・クースクを探して』宮内悠介

読んだ後にその本のことを誰かに話したくなるような本は「いい本」である。

過去に誰かが言っていそうな気もするし、「いやいや、『いい本』ってそういうものではない」という向きもあると思うが、自分はそう思っている。

本書は2023年8月の刊行以来、多くの書評で取り上げられているが、主人公と自分を重ね合わせるような表現が見受けられる。例えば読売新聞で小川哲は「つまりや私やあなたの話だ。」と述べており、朝日新聞で澤田瞳子は「ラウリの姿は現在社会に生きる我々自身と重なり合い、読み手に自身の日常のはかなさ、かけがえのなさを突き付ける。 ラウリ・クースクを探す旅は、我々自身を見つめ直す旅なのだ。」と述べている。

また、週刊文春米光一成は「「ああ、これはぼくの物語だ」と思い込んだ。」「ぼくは自分自身の青春時代を書き換えるような気持ちで一気に読み切ってしまった。」と書いており、週刊読書人で八木寧子は「私たちのなかにも、かつて「ラウリ」はいたのではないか。」と記している。

本書のストーリーは、1970年代後半のエストニアに生まれたラウリ・クースクという人物の消息を、現在の「わたし」が追うというもの。エストニアバルト三国の一角。それぞれの国の方向性は作中で語られるけれども、自分も含め、世界地図ではラトビアリトアニアと間違えて色を塗ってしまいそうな位置にある。

そんなエストニア人を主人公とする小説に対し、自分に引き寄せて考えてみるような、早い話が共感を寄せるような書評が並んでいる。本書の魅力はどこにあるのだろうか。ここでは、自分にとって面白かった点を紹介しておく。

主人公ラウリはどうなったのか

いきなり本書のテーマであるが、実際そうなのだ。もちろん、読者の気を引き続けるために、ラウリのキャラクターはそれに耐えるものでなければならない。コンピュータ(プログラミング)に抜群の才能を発揮するけれども、人間関係には一歩引いたところのある主人公。このような人物が誰と出会い、どのように成長し、ソ連の崩壊に伴う混乱をどうやって乗り越えていったのか(あるいは波に飲み込まれていくのか)。現在のエストニアの「電子国家」ぶりを知っているだけに、その人生は大いに気になるところである。

「わたし」の正体

本書の「序」では、本書をラウリの伝記と位置付けた上で、それを執筆しようとした経緯が「わたし」によって語られる。エストニア人の通訳を連れてラウリの関係者を訪ねて歩く「わたし」とは誰なのか。正体は無事に後半に明かされるので、そこは安心してほしい。

関係人物による語り

本書は、少年・青年時代のラウリの内面に寄り添いながら進むパートと、現代の「わたし」がラウリをよく知る人物をインタビューするパートで構成される。時間を行き来しつつ、ラウリを内側と外側から描くことによってその姿が立体的に描かれる。「この人とはこうなるのか」「この人からはこういうふうに見えていたのか」といった具合に新たな視点が得られるのは楽しく、また読者自身を代弁するかのような表現に出会うこともある。ある人物がラウリを語る際に発した「弟みたいな印象」というのは、まさにそのとおりだと思った。

この日のことは忘れない

夏休みにラウリが友人と別荘に行くシーンがあり、その終わりの方で出てくる言葉だ。この別荘への旅行は子供時代の明るく澄んだ光に満ちていて、その後の社会の混乱を知っているだけに、一層光り輝いてみえる。

エストニアのように社会が丸ごとひっくり返ってしまうような経験はないにせよ、青少年期に、「この日のことは忘れない」と感じたことのある人はいると思う。折に触れては思い出し、人生というものに肯定されたかのような日のことである。

多分、本書を読んだ人にもそういう日々はあっただろうし、その時の話であれば、ウイスキーを飲みながら耳を傾けたい。そんなことを思った。

『ブックオフから考える』谷頭和希

 「ブックオフ」は爆薬のような言葉で、特に「本」が話題となっている文脈では取扱注意である。使い方を間違えると、作家に利益が還元されない、とか、出版文化を壊す元凶、といった指摘がやってきて爆発してしまう。あとには火のくすぶる焼け跡が残るばかり。このページを目にする人はほとんどいないと思うけれど、念のため、本書は一般の新刊書店で購入したと書いておくことにしよう。

 とはいえ「ブックオフ」も誕生して30年。あのカラーの配色から容易に思い出せるくらい生活に浸透しているのも事実。本書はその「ブックオフ」の社会的意義、文化的意義を改めて検討したものである。その切り口は「なんとなく性」。いったいどういうことだろうか。

概要

 序章では「なんとなく性」を説明する。ブックオフの「なんとなく性」が如実に反映されているのが本棚である。今回、初めて知ったのだが、ブックオフの棚は持ち込まれた本がそのまま並べられているという。店長やマネージャーに相当するような人が、客層を意識して本を陳列するわけではない。仮に、サブカルチャーに関する本が充実していたとしても、それは、店舗の商圏にそのような本を所有する人が多かっただけで、結果的に生まれたもの。まさに「なんとなく」発生したということだ。著者は、そのような営業方針を「意図」がない、としている。以降、第一章から終章まで様々な切り口で「なんとなく性」を分析していく。

第一章(かたる)

 第一章は、ブックオフの歴史を振り返り、各時期にブックオフが社会でいかに語られてきたのかという点を解説する。

 ブックオフが誕生した1990年代、その事業モデルは古本屋のイメージを一新し、書籍の流通制度にメスを入れるものとして商業系の雑誌・書籍を中心に称賛の声があった。その後、店舗数が増えるにつれて否定的な声が上がっていく。その内容とは、知的生産物たる本を消費財として扱う、といった本への愛着に起因するものである。冒頭で挙げたような指摘は書評家とかそういった本の愛好家がしばしば発する言葉である。ただし、著者は「否定論」とは少し距離を置き、「称賛論」も「否定論」も「業界目線」であり、「消費者目線」での語りは少なかったのではないかと指摘する。

 以降、著者自身の体験や、ロスジェネ世代を中心とした、ウェブメディアでの語り方が挙げられ、これらを「ブックオフ思い出論」と命名する。基本的に「思い出論」は肯定的になりがちだ。そして個人の思い出を他人が評価することはできない。批評の対象にはしにくいのだ。

 しかしながら、21世紀に突入して20年が経過し、現在のブックオフと、ロスジェネ世代の思い出の中のブックオフとでは、重なり合う部分もあれば重ならない部分もある。自分とブックオフで構成される閉じた「思い出語り」ではなく、ブックオフを使って、社会が考察できるのではないか、第一章はそんな内容である。

第二章(めぐる)

 第二章は、前半は著者ととみさわ昭仁との対談。著者は、とみさわのスタイルとは、「自分にとっての掘り出し物」を探すというスタイルであり、そのルーツは、赤瀬川原平らの路上観察学会の影響があるとする。そして、路上観察学会が都市から面白さを見出したように、ブックオフを訪れる人は、その書棚からも面白さを発見できるのではないかと指摘する。なぜなら、ブックオフの書棚は、周囲に住む人の影響が反映されているからだ。

第三章(あそぶ)

 第三章は、まずはブックオフの「遊び方」として「三千円ブックオフ」という企画を取り上げる。ブックオフで、三千円をちょうど使い切るように買い物をする企画だ。

 参加者や発案者との会話を経て、著者は「三千円ブックオフ」には思いもしなかった本との出会いがあるという。さらに、その「遊び」を青木淳の「原っぱ」論と絡めて解説する。青木の言う「原っぱ」は人々が自由を感じる場所であるが、それは「原っぱ」以外の場所に厳格なルールがあるゆえに、逆説的に生じたものでもある。

 ブックオフについても同様で、三千円での買い物に自由を感じるのであれば、その一方にブックオフ独自の厳格なルールがあることの裏返しでもある。

第四章(つくる)

 第四章は、ブックオフから生まれた「文化」とその特徴を考察する。

 著者は、ブックオフの本やCDによって自己のバックボーンを形成した人々を「ブックオフ文化人」と呼ぶ。例えばDJ•トラックメーカーのtofubeatsは、ブックオフのCDコーナーで発見した曲が自身の音楽的素養になったという。それを可能にしたのは、流行のCDを安価に届けられるブックオフの流通網である。

 しかし、今やインターネットを介して全国どこでも同じ曲や本を入手できるようになった。それではブックオフの役割はどのように変わったのか。実は、今でもブックオフの乱雑とも言える棚に惹かれ、そこから「偶然の出会い」を期待している人たちがいる。そのような「偶然の出会い」から生まれる文化を、著者は、毛利嘉孝のいう「ストリート」の文化と関連させて論じている。

終章(つながる)

 終章は、ブックオフの空間が持つ「公共性」について論じる。一般に「公共性」といえば図書館や博物館などの文化施設の方が相応しい言葉である。

 ただ、図書館などは大都市でもなければ数は多くない。新刊書店に至っては存在しない市町村も多々あるという。そのような現状では、むしろブックオフの方が満遍なく点在していると言える。このように、立地という面で考えれば、ブックオフは十分に「インフラ」と言えるほど行き渡っている。

 次に「公共性」についてであるが、本と「公共性」の組み合わせで真っ先に思い付くものといえば図書館。誰でも行ける施設である。ただ、図書館が真に公共的かどうかは検討の余地がある。図書館では本を購入するための「選定基準」があるという。「基準」とは、それを満たすものと満たさないものに線を引くものであることから、多様性を謳いつつも、不適格なものを排除する動きも進めてしまう。

  そこで、改めて「公共性」の持つ意味を考えてみる。まずはハーバーマスアーレントを参照してみよう。そこでの「公共性」は意思を持つ個人の討議でより良い社会を目指すと言った意味に近い。うん、ブックオフとはちょっと縁がない気がする。

 もう少し別の角度から考えたのが東浩紀やphaや小松理虔といった人々。その特徴を一言で言うと、順に、声なき声や、個人の本棚とブックオフの本棚の融和、「いる」コミュニティ、だろうか。著者はこれらをキーとして、ブックオフを既存の公共空間の破壊者として見るのではなく、その特徴を新しい「公共性」(まさに「なんとなく性」)として包摂することの重要性を説く。

その他個人的に

 本書では新刊書店の例として蔦谷書店が登場する。自分が行ったときは「本っていいよね!」「本っておしゃれだね!」と主張しているように思った。まさに 、本を売りたいという「意図」が全面に出ている空間であった。また、本書には登場しなかったが、最近は古本屋でも、本の選定や店内デザインにこだわった「おしゃれ」な古書店も現れている。これなどは店主の「意図」が全面に出た店舗である。そういった書店の中には、本の販売だけではなく、企画を立てて、人を呼び込む「場」としての機能を指向する書店もあるようだ。ハーバーマスのいう「公共性」に近い書店と言えるかもしれない。

 ブックオフは、そんな古書店とは無縁だ。とみさわ昭仁を呼んでの企画などは想像もつかない。ただ、そういうブックオフを書店として同じテーブルに乗せ、さらに「公共性」という切り口で考察したこと。そこに本書の新しさはあるのではないか、そんなことを思った。

『消費者をケアする女性たち』満薗勇

この本の主役は「ヒーブ」という人々である。ヒーブは「Home Economists In Business」の略で企業内家政学士という意味だそうだ。消費生活の発展を背景にアメリカで20世紀前半に生まれた概念で、日本には1970年代から導入された。60年代の高度成長が終了し、70年代に日本は低成長に移行する。学生運動が先鋭化・テロ化し、公害の深刻化や食の安全性などの社会不安が高まっていく。これまで企業と一体になって経済発展(大量消費)に取り組んでいた消費者も今までの生活を見直し、企業と対峙するようになる。そのような状況で企業側が着目したのがアメリカのHEIBである。日本ではカタカナの「ヒーブ」として企業主体で70年代後半に協議会が結成された。ただ、アメリカと異なり家政学会、つまり、アカデミズムが関わらなかったことで日本のヒーブは独自に進化を遂げていくことになる。

 

では、HEIBとは何をするのか。アメリカでは、消費者からの声を受け止め、それを別の部門につなげて商品の改良やユーザビリティの向上に貢献しているという。例えば、取扱説明書を読みやすくするといったものがある。また、これは80年代の日本の例となるが、電子レンジの加熱機能とトースターの機能を兼ね備えたオーブントースターレンジ(シャープの「U'sシリーズ」)の開発が挙げられる。ほかにも、ホットケーキミックスに異物が混入していた理由を突き止めたというものがある。これは何かというと、混入の背景には泡立て器の強度不足があり、さらにその先の原因を考えていくと、設計者が男性であるがゆえに「「主婦なら誰しも心当たりのある」使用方法」に気づかなかったため、つまり、ボウルなどにコンコンとぶつけて落とす行為を想定していなかったためだという。こう考えていくと、家電製品や生活用品のセールスポイントの中には、実はヒーブが関わっていたものはかなり多いのではないだろうか。

前置きが長くなったが、本書はヒーブを通して日本の戦後女性史の理解を試みるものである。

ただ、この「ヒーブ」という言葉、少なくとも自分は知らなかった。近年はフェミニズムに関するいくつもの書籍が出版されているが、本書が出るまで聞いたことはない。フェミニズムにおける「ヒーブ」の扱いは、著者の言を引くと次のようにある。

消費者運動を軸に描かれる消費者研究からは、企業サイドの動きは直接にはみえにくい対象であろうし、ウーマンリブを第二波フェミニズムの軸に据える日本のフェミニズム史理解でも、女性性を積極的に背負うヒーブは視野の外に置かれる場合が多いだろう。」

また、上野千鶴子の意見を次のようにまとめている。

・1986年の男女雇用機会均等法にはジェンダー不平等の是正に関して限界があった。

・一方、派遣事業やパートタイムに関する規制緩和が進められ女性の非正規雇用が拡大した。

・その結果、男性並みの働き方で男性並みの成果を上げるエリート女性と、女性並みの労働でケア負担を担う女性との間で分断が生じた。

女性の労働環境が問題になる場合、このような「エリート女性」は育児も労働も死ぬ気でやってきたのでロールモデルとしてはあまり参考にならない存在として忌避されがちである。

だからといって「ヒーブ」は日本の経済活動のなかで疎外されるべきものではない。むしろ自らのアイデンティティを企業文化の中で確立していった存在である。本書はこの過程を丁寧に分析したものである。

 

第一章は日本におけるヒーブの成立の過程を考察する。上の述べたことと重なる部分があるが、家政学の関与が少なかったため、ヒーブの導入は企業のあり方を相対化する方向ではなく、いかに企業の中で女性たちの立場を確立するべきかという点が重要視されるようになった。

 

第二章はヒーブたちの実際の活動が述べられる。資料的な条件で脚色もあるのだろうが、仕事に対する熱い意識と「やりがい」を見出す点が印象的だ。

 

第三章は日本ヒーブ協議会の分析である。ヒーブには先行するモデルがないため、協議会は企業や業種の枠を超えたネットワークづくりに活用されることになった。その中では「働く女性」としての意識が共有・形成されていく。これは女性性を融解する方向ではなく、「女性だからこそ」の視点で何かできることがあるのではないか、との自負を強化する方向へと進んでいくことになる。

 

第四章はヒーブの仕事とケアの考察である。本書では「ケア」を「世話、配慮、気配りといった広義の概念も含みつつ、直接には家事・育児・介護を指すもの」と定義している。家事や育児を効率的に進める商品の開発は、狭義のケアの商品化と見ることができ、消費者の問合せ対応などは広義のケアに該当する。

まず狭義のケアに関しては、予想どおり、「自分でする」という傾向があった。家族に教えるよりは自分でやった方が早い、ケアを担うことが仕事でもプラスになるという考えがあったそうだが、真に自身の意思であったのか、企業側の期待に応えるべく自身の考え方を知らず知らずのうちに合わせていたのか、吟味が必要だろう。一方、広義のケア、すなわち消費者対応はそれ自体にはやりがいは感じられず、社内へのフィードバックを通じて改善に貢献したときに大きなやりがいを感じる傾向にあった。

 

第五章は子育て経験についてアンケート結果を踏まえて確認していく。アンケートの時期は90年代前半で、やはり現在と同様に仕事と家庭の両立に悩む姿が浮かび上がる。特徴的なのは、その両立が仕事にもプラスになるとしてポジティブな方向にまとめていることである。

 

日本企業における消費者対応は、消費者至上主義と批判されることがある。また、過剰なオプション機能がガラパゴス化と揶揄されることもある。ただ、そのような対応を求めたのは、他ならぬ日本の消費者であったことは十二分に意識する必要がある。日本の日常用品や生活家電が今の姿のようになっているのは、絶えざる製品改良のおかげであろう。その中でヒーブの果たしてきた役割は小さくはない。

ヒーブは生活者として、そして企業人として自らの役割を常に自問自答し続けた存在であり、日本の女性労働を考える上で、特異的な存在や分断をもたらした存在として位置付けるのは、彼女たちの尊厳を無視した行為ではないだろうか、そんなことを思った。

『雌犬』ピラール•キンタナ

概要

主人公のダマリスは40歳を迎えようとする黒人女性。コロンビアの沿岸部の都市であるブエナベントゥーラの沖にある島で、別荘の管理人をして暮らしている。別荘は地元の村からは少し離れた「崖の上」にある。夫のロヘリオは大柄で、かつては不妊治療にともに取り組んだものの、効果は表れず、夫婦仲は良くはない。ダマリスが暴力を振るわれている描写はないが、すでに飼っている犬たちには容赦がない。

そんな中でダマリスは雌の犬を貰い受け、これを溺愛して育てようとする。娘に名付けると言っていた「チルリ」という名前を与え、ロヘリオや他の犬のターゲットにならないよう気を配る。

ただ、それで何も起こらないはずがなく、ある日、犬は行方不明になってしまう。もちろん、ダマリスは懸命に探すものの、何日経過しても見つからない。あきらめつつあったときに犬が帰ってくる。怪我した犬の世話をするダマリス。また、元の生活に戻ると思ったものの…。

母娘関係

娘に与えると言っていた名前を犬に与えているように、この擬似的な母娘関係が物語の軸になっている。ダマリスの母は赴任してきた軍人との間に彼女を授かるが、妊娠後にその軍人は逃げ出したため、島から離れて働きに出ることになる。その光景は幼いダマリスにとっては「思い出すたびに孤独を感じ、泣きたく」なるものであった。その母もダマリスが14歳の時に亡くなってしまう。

ダマリスが雌犬を溺愛するのは、自身が母と接する時間に恵まれなかったこともあるだろう。母娘関係をやり直したいという意識もあったかもしれない。ただ、もちろん娘は母の所有物ではないし、それぞれの人生を生きるものである。人間であればゆっくりと時間をかけて対立と和解を繰り返しながら互いの尊重に至るものだが、相手が犬であればそうともいかない。人間よりも早く成熟する犬を見て、ダマリスは自身の一部が裏切られた気分になってしまう。

ダマリスの行動を非難することは簡単だ。ただ、作者はそこに至るまでの過程で、男女の問題、白人と黒人の格差、島の生活、過去の思い出、人間と動物、人間と自然など、165ページの中にいくつもの要素を重ねている。その全てがこの結末を導くために配置されていることに驚くばかりである。

熱帯の島が舞台であるためか、多くの水が出てくる。雨であったり海であったりする。しかしながら、この作品での水はあまり好意的には描かれていないようだ。雨が降れば島内の交通に影響を及ぼすし、海は子供の頃の友人のニコラシートの死の原因であり、また、引き受け手のいない子犬が流されることもある。最後には雌犬の尿が出てくる。生命の誕生の時には羊水に囲まれている。その逆で死に至る時には尿に囲まれるということであろうか。

文体

無駄のない文体で容赦なく描き切った、と国書刊行会のホームページでは紹介されている。一文一文が短めの文章で、素直に「思った」などと書かれているので読みやすかった。