『セミコロン』セシリア・ワトソン

 自分の今後の人生で英語の文章を書くことはあるかもしれないが、その文章でセミコロンを用いることはない。これは断言してもいい。しかし、そもそも、授業で教わった記憶がない。仮定法も教わった、分詞構文も教わった、SVOCの分析は散々やった、でもセミコロンの使い方は聞いた覚えがない。喉に刺さった小骨とは言わないまでも、なかなか取れない爪の垢程度の引っかかりはある。セミコロンとは何なのか。

 その答えは、ピリオドとコンマの中間といった役割を持つ記号、という意味らしい。おそらく、この「中間」が厄介な言葉で、セミコロンについて、本書の冒頭に登場するポール・ロビンソンという人は「自分で使おうものなら、人の道に悖る行為のようにすら感じる」と、作家のドナルド・バーセルミに至っては「醜い、それも犬の腹についたダニのように」とまで述べている。(この形容にはさすが作家である、と感心してしまった。)

 そんな一部の人からは蛇蝎の如く嫌われるセミコロン。本書はセミコロンの誕生からその後の文法の歴史とともに、そこから派生して議論やコミュニケーションのあり方まで論じるものである。

 セミコロンが生まれたのはルネサンス期、文章の作成方法もいろいろと試行錯誤していた頃で、当時からある程度の休止を意味する役割があった。

 この使い方のルールが定まるのが自然科学が発達する19世紀。まるで数式のように文法にも厳密性が求められるようになる。ときの学者はセミコロンにも厳格な定義を与えて役割を明確化しようとする。現代でもそのようなルール、すなわち文法のマニュアル本は版を重ねているものの、英語のネイティブであってもセミコロンに苦手意識を持つ人はいるという。

 だが、そもそも文法規則は何のためにあるのだろうか。規則に合わない文章を排除するためなのか、書いた人の無知をあげつらうためにあるのだろうか。もちろん、そうではない。規則を絶対視するのではなく、規則の枠を超えて言葉そのものの豊かさを考えていく方がよいのではないか。

 本書の半分くらいは文法の歴史、もう半分は、セミコロンをきっかけに判断が分かれた裁判事例とセミコロンを用いた実際の文章の考察となっている。日本でも読点の置かれた位置で法解釈が揺れてしまい、判決や処分に影響している事例は実はあるのではないだろうか。また、文章の考察の章では、ネイティブにおけるセミコロンの感じ方の一端を知ることができて興味深いものがあった。

 文法を過度に重視する傾向は日本語でも同様の傾向があると思う。ビジネスでも論文でも「書き方」の指南書があるのは、それだけルールを破った時のリスクを恐れているからであろう。ただ、日本語自体は本来はもっと優しいものではないだろうか。勇気を振り絞って書かれた言葉はルールの枠を超えて、相手に届くだろうし、自分も文章を書いた人の思いを感じられるようになりたい、そんなことを思った。