『ラウリ・クースクを探して』宮内悠介

読んだ後にその本のことを誰かに話したくなるような本は「いい本」である。

過去に誰かが言っていそうな気もするし、「いやいや、『いい本』ってそういうものではない」という向きもあると思うが、自分はそう思っている。

本書は2023年8月の刊行以来、多くの書評で取り上げられているが、主人公と自分を重ね合わせるような表現が見受けられる。例えば読売新聞で小川哲は「つまりや私やあなたの話だ。」と述べており、朝日新聞で澤田瞳子は「ラウリの姿は現在社会に生きる我々自身と重なり合い、読み手に自身の日常のはかなさ、かけがえのなさを突き付ける。 ラウリ・クースクを探す旅は、我々自身を見つめ直す旅なのだ。」と述べている。

また、週刊文春米光一成は「「ああ、これはぼくの物語だ」と思い込んだ。」「ぼくは自分自身の青春時代を書き換えるような気持ちで一気に読み切ってしまった。」と書いており、週刊読書人で八木寧子は「私たちのなかにも、かつて「ラウリ」はいたのではないか。」と記している。

本書のストーリーは、1970年代後半のエストニアに生まれたラウリ・クースクという人物の消息を、現在の「わたし」が追うというもの。エストニアバルト三国の一角。それぞれの国の方向性は作中で語られるけれども、自分も含め、世界地図ではラトビアリトアニアと間違えて色を塗ってしまいそうな位置にある。

そんなエストニア人を主人公とする小説に対し、自分に引き寄せて考えてみるような、早い話が共感を寄せるような書評が並んでいる。本書の魅力はどこにあるのだろうか。ここでは、自分にとって面白かった点を紹介しておく。

主人公ラウリはどうなったのか

いきなり本書のテーマであるが、実際そうなのだ。もちろん、読者の気を引き続けるために、ラウリのキャラクターはそれに耐えるものでなければならない。コンピュータ(プログラミング)に抜群の才能を発揮するけれども、人間関係には一歩引いたところのある主人公。このような人物が誰と出会い、どのように成長し、ソ連の崩壊に伴う混乱をどうやって乗り越えていったのか(あるいは波に飲み込まれていくのか)。現在のエストニアの「電子国家」ぶりを知っているだけに、その人生は大いに気になるところである。

「わたし」の正体

本書の「序」では、本書をラウリの伝記と位置付けた上で、それを執筆しようとした経緯が「わたし」によって語られる。エストニア人の通訳を連れてラウリの関係者を訪ねて歩く「わたし」とは誰なのか。正体は無事に後半に明かされるので、そこは安心してほしい。

関係人物による語り

本書は、少年・青年時代のラウリの内面に寄り添いながら進むパートと、現代の「わたし」がラウリをよく知る人物をインタビューするパートで構成される。時間を行き来しつつ、ラウリを内側と外側から描くことによってその姿が立体的に描かれる。「この人とはこうなるのか」「この人からはこういうふうに見えていたのか」といった具合に新たな視点が得られるのは楽しく、また読者自身を代弁するかのような表現に出会うこともある。ある人物がラウリを語る際に発した「弟みたいな印象」というのは、まさにそのとおりだと思った。

この日のことは忘れない

夏休みにラウリが友人と別荘に行くシーンがあり、その終わりの方で出てくる言葉だ。この別荘への旅行は子供時代の明るく澄んだ光に満ちていて、その後の社会の混乱を知っているだけに、一層光り輝いてみえる。

エストニアのように社会が丸ごとひっくり返ってしまうような経験はないにせよ、青少年期に、「この日のことは忘れない」と感じたことのある人はいると思う。折に触れては思い出し、人生というものに肯定されたかのような日のことである。

多分、本書を読んだ人にもそういう日々はあっただろうし、その時の話であれば、ウイスキーを飲みながら耳を傾けたい。そんなことを思った。