『ブックオフから考える』谷頭和希

 「ブックオフ」は爆薬のような言葉で、特に「本」が話題となっている文脈では取扱注意である。使い方を間違えると、作家に利益が還元されない、とか、出版文化を壊す元凶、といった指摘がやってきて爆発してしまう。あとには火のくすぶる焼け跡が残るばかり。このページを目にする人はほとんどいないと思うけれど、念のため、本書は一般の新刊書店で購入したと書いておくことにしよう。

 とはいえ「ブックオフ」も誕生して30年。あのカラーの配色から容易に思い出せるくらい生活に浸透しているのも事実。本書はその「ブックオフ」の社会的意義、文化的意義を改めて検討したものである。その切り口は「なんとなく性」。いったいどういうことだろうか。

概要

 序章では「なんとなく性」を説明する。ブックオフの「なんとなく性」が如実に反映されているのが本棚である。今回、初めて知ったのだが、ブックオフの棚は持ち込まれた本がそのまま並べられているという。店長やマネージャーに相当するような人が、客層を意識して本を陳列するわけではない。仮に、サブカルチャーに関する本が充実していたとしても、それは、店舗の商圏にそのような本を所有する人が多かっただけで、結果的に生まれたもの。まさに「なんとなく」発生したということだ。著者は、そのような営業方針を「意図」がない、としている。以降、第一章から終章まで様々な切り口で「なんとなく性」を分析していく。

第一章(かたる)

 第一章は、ブックオフの歴史を振り返り、各時期にブックオフが社会でいかに語られてきたのかという点を解説する。

 ブックオフが誕生した1990年代、その事業モデルは古本屋のイメージを一新し、書籍の流通制度にメスを入れるものとして商業系の雑誌・書籍を中心に称賛の声があった。その後、店舗数が増えるにつれて否定的な声が上がっていく。その内容とは、知的生産物たる本を消費財として扱う、といった本への愛着に起因するものである。冒頭で挙げたような指摘は書評家とかそういった本の愛好家がしばしば発する言葉である。ただし、著者は「否定論」とは少し距離を置き、「称賛論」も「否定論」も「業界目線」であり、「消費者目線」での語りは少なかったのではないかと指摘する。

 以降、著者自身の体験や、ロスジェネ世代を中心とした、ウェブメディアでの語り方が挙げられ、これらを「ブックオフ思い出論」と命名する。基本的に「思い出論」は肯定的になりがちだ。そして個人の思い出を他人が評価することはできない。批評の対象にはしにくいのだ。

 しかしながら、21世紀に突入して20年が経過し、現在のブックオフと、ロスジェネ世代の思い出の中のブックオフとでは、重なり合う部分もあれば重ならない部分もある。自分とブックオフで構成される閉じた「思い出語り」ではなく、ブックオフを使って、社会が考察できるのではないか、第一章はそんな内容である。

第二章(めぐる)

 第二章は、前半は著者ととみさわ昭仁との対談。著者は、とみさわのスタイルとは、「自分にとっての掘り出し物」を探すというスタイルであり、そのルーツは、赤瀬川原平らの路上観察学会の影響があるとする。そして、路上観察学会が都市から面白さを見出したように、ブックオフを訪れる人は、その書棚からも面白さを発見できるのではないかと指摘する。なぜなら、ブックオフの書棚は、周囲に住む人の影響が反映されているからだ。

第三章(あそぶ)

 第三章は、まずはブックオフの「遊び方」として「三千円ブックオフ」という企画を取り上げる。ブックオフで、三千円をちょうど使い切るように買い物をする企画だ。

 参加者や発案者との会話を経て、著者は「三千円ブックオフ」には思いもしなかった本との出会いがあるという。さらに、その「遊び」を青木淳の「原っぱ」論と絡めて解説する。青木の言う「原っぱ」は人々が自由を感じる場所であるが、それは「原っぱ」以外の場所に厳格なルールがあるゆえに、逆説的に生じたものでもある。

 ブックオフについても同様で、三千円での買い物に自由を感じるのであれば、その一方にブックオフ独自の厳格なルールがあることの裏返しでもある。

第四章(つくる)

 第四章は、ブックオフから生まれた「文化」とその特徴を考察する。

 著者は、ブックオフの本やCDによって自己のバックボーンを形成した人々を「ブックオフ文化人」と呼ぶ。例えばDJ•トラックメーカーのtofubeatsは、ブックオフのCDコーナーで発見した曲が自身の音楽的素養になったという。それを可能にしたのは、流行のCDを安価に届けられるブックオフの流通網である。

 しかし、今やインターネットを介して全国どこでも同じ曲や本を入手できるようになった。それではブックオフの役割はどのように変わったのか。実は、今でもブックオフの乱雑とも言える棚に惹かれ、そこから「偶然の出会い」を期待している人たちがいる。そのような「偶然の出会い」から生まれる文化を、著者は、毛利嘉孝のいう「ストリート」の文化と関連させて論じている。

終章(つながる)

 終章は、ブックオフの空間が持つ「公共性」について論じる。一般に「公共性」といえば図書館や博物館などの文化施設の方が相応しい言葉である。

 ただ、図書館などは大都市でもなければ数は多くない。新刊書店に至っては存在しない市町村も多々あるという。そのような現状では、むしろブックオフの方が満遍なく点在していると言える。このように、立地という面で考えれば、ブックオフは十分に「インフラ」と言えるほど行き渡っている。

 次に「公共性」についてであるが、本と「公共性」の組み合わせで真っ先に思い付くものといえば図書館。誰でも行ける施設である。ただ、図書館が真に公共的かどうかは検討の余地がある。図書館では本を購入するための「選定基準」があるという。「基準」とは、それを満たすものと満たさないものに線を引くものであることから、多様性を謳いつつも、不適格なものを排除する動きも進めてしまう。

  そこで、改めて「公共性」の持つ意味を考えてみる。まずはハーバーマスアーレントを参照してみよう。そこでの「公共性」は意思を持つ個人の討議でより良い社会を目指すと言った意味に近い。うん、ブックオフとはちょっと縁がない気がする。

 もう少し別の角度から考えたのが東浩紀やphaや小松理虔といった人々。その特徴を一言で言うと、順に、声なき声や、個人の本棚とブックオフの本棚の融和、「いる」コミュニティ、だろうか。著者はこれらをキーとして、ブックオフを既存の公共空間の破壊者として見るのではなく、その特徴を新しい「公共性」(まさに「なんとなく性」)として包摂することの重要性を説く。

その他個人的に

 本書では新刊書店の例として蔦谷書店が登場する。自分が行ったときは「本っていいよね!」「本っておしゃれだね!」と主張しているように思った。まさに 、本を売りたいという「意図」が全面に出ている空間であった。また、本書には登場しなかったが、最近は古本屋でも、本の選定や店内デザインにこだわった「おしゃれ」な古書店も現れている。これなどは店主の「意図」が全面に出た店舗である。そういった書店の中には、本の販売だけではなく、企画を立てて、人を呼び込む「場」としての機能を指向する書店もあるようだ。ハーバーマスのいう「公共性」に近い書店と言えるかもしれない。

 ブックオフは、そんな古書店とは無縁だ。とみさわ昭仁を呼んでの企画などは想像もつかない。ただ、そういうブックオフを書店として同じテーブルに乗せ、さらに「公共性」という切り口で考察したこと。そこに本書の新しさはあるのではないか、そんなことを思った。