『デュー・ブレーカー』エドウィージ・ダンティカ

『息吹、まなざし、記憶』にも登場した、トントン・マクートの暴力について関心があったため、引き続き手に取ってみたところ。「デュー・ブレーカー」は「朝露を蹴散らす者」から転じて「拷問執行人」という意味になるという。

九つの作品からなる短編集で、それぞれが直接的に、あるいは間接的につながっている。

死者の書
導入的な作品。語り手の私は、父と一緒にハリウッドスターのガブリエル・フォンテヌーのもとに彫刻を持って訪問するが、途中で父が失踪してしまう。ミステリー仕立てのストーリーの中で父の過去が描かれる。過去の父と母に何があったのか、なぜ、ガブリエル一家と違ってハイチに行こうともしないのか。父の外見の特徴である富士額や右頬の傷跡は、この後の作品でも何度か見かける特徴である。

『セブン』
先にアメリカに渡った夫が妻を七年ぶりに呼び寄せるという話。夫は他に二人の男と同居していて、その男同士のやり取りなどコミカルな部分はあるものの、妻が空港で受けた乱暴な荷物調査や、ハイチ系アメリカ人の殺害事件などが挟まれ、暗い印象も受ける。

水子
アメリカで看護師として働くナディンと、その両親、そして患者で発話障害を負ったハインズを中心に、親子関係が対比的に描かれる。ラストのエレベーターでの別れのシーンは、文字通り「すべてのこと」を象徴しているように思われた。

『奇跡の書』
冒頭の『死者の書』で登場した家族が、クリスマスのミサに出かけたときの話。かつてハイチで「死の部隊」を率いていた人物と似ている男が現れ、一家に動揺が走る。
その一方で母親のアンに弟がいて、幼い頃に海で溺れ死んだことが明らかになる。

『夜話者』
アメリカからハイチに戻ってきた青年の話。青年の名前である「ダニー」は『セブン』でも出てくる名前である。ダニーはかつて富士額の男に両親を殺され、叔母のエスティナに育てられるが、エスティナ自身もその際に目に傷を負ってしまう。
30ページほどであるものの、富士額の男との対峙、エスティナの死、刑務所帰りのクロードの話とエピソードが続き、様々な死の受容が描かれる。

『針子の老婦人』
ウェディングドレスの製作者のベアトリスと、彼女にインタビューを試みるアリーンの話。ベアトリスは、ハイチ時代に拷問を受けており、今でも近所にそのときの看守が住んでいるとアリーンに話す。アリーンがその家を訪問すると、その家はすでに空き家。それをベアトリスに伝えると…。
『夜話者』から一変して、人生を「大きな怒り」で占められてしまった人の存在が重い。

『猿の尻尾(一九八六年二月七日/二〇〇四年二月七日)』
1986年はベビー・ドクと言われたジャン=クロード・デュヴァリエが亡命した年で、その頃の争乱を背景に「僕」と友人(ロマン)との別れを描いている。
「僕」には商店を経営する父(ムッシュ・クリストフィ)がいるが、父子としての関わりはない。そんな「僕」にとってロマンは魅力的な年上の友人だったものの、ロマンの父のレグルスが政権側の有力者であったために、離ればなれになってしまう。「僕」とムッシュ・クリストフィ、ロマンとレグルス、さらにデュヴァリエ父子という三組の親子を通して、父の立場が子に及ぼす影響を考えさせるものとなっている。
ちなみに「僕」は「ミシェル」と呼ばれており、『セブン』にも名前が出てくる。

『葬式歌手』
マンハッタンで英語を勉強するハイチ出身の女性三人組が描かれる。『息吹、まなざし、記憶』のように比較的最近の話なのかなと思いきや、70年代の話であったことが途中で判明する。三人がアメリカに来た背景にはいずれも暴力や貧困があり、彼女たちが乾杯を掲げた未来にあってもなおも解決していないことを考えると、なんともやるせない気分になる。

『デュー・ブレーカー 一九六七年頃』
最終話のこの作品で『死者の書』と『奇跡の書』の「父」と「母」の過去が明らかになる。あえて核心に踏み込まないことで、関係を保ってきた家族。その均衡が崩れたときに何が現れるのかー。

というわけで、どの作品にも暴力が密接に関わっており、登場人物にとって忘れることのできない出来事となっている。その一方で、直接の暴力を受けていない若者や赤子も登場させていることに注目したい。語るべき相手がいなければ、当然、過去の暴力の重みに耐えきれないだろう。そのような中で、過去の記憶を継承する世代をきちんと用意していることに作者の優しさを感じた。