『おいしいごはんが食べられますように』高瀬隼子

「おいしいごはんが食べられますように」というのは考えてみると変な言葉だと思う。料理を作った当人が、これから食べてもらう人にかける言葉ではないだろう。「食べられますように」だからお祈り文のようなもので、これを言われた本人がその後に食べるかどうかは未確定であるし、「おいしい」かどうかはさらに分からない。
結局のところ、なんとなく何かいいことを言っていそうで、言われた方も特に返す言葉もない、そんなふわっとした言葉なのだ。

主な登場人物は、男性社員の二谷、女性社員の押尾と芦川さん(「さん」を外して呼ぶことができない類の人物だ)

この「おいしいごはんが食べられますように」の言葉がもっとも似合いそうなのが芦川さんで、食事嫌いの二谷に料理のアドバイスを話してくる。言葉だけならばともかく、料理には実際にモノがある。
やがて、職場で毎日のように芦川さんのお手製のお菓子が振る舞われることになる。職場という極めて現実的な場所が、個人の「好き」で覆われていく過程は、「文学」を諦めた二谷や、「チア」にそこまでの熱意を持てなかった押尾には受け入れ難いものに映る。

ケーキを食べるシーンはこんなふうに描かれる。

生クリームが口の中いっぱいに広がる。歯の裏まで、奥歯の上の歯茎に閉じられた空間にまで入り込んでくる。みかんとキウイを噛んで砕く。じゅわっと汁が広がる。その範囲をなるべく狭めたくて、顎をちょっと上げて頭を傾ける。噛みしめるたびに、にちゃあ、と下品な音が鳴る。舌に塗られた生クリーム、その上に果物の汁。スポンジがざわざわ、口の中であっちこっちに触れる。柔らかいのと湿っているのとがあって、でもクリームと果物の汁で最後には全部じわっと濡れる。噛んですり潰す。飲み込む時、一層甘い重い匂いが喉から頭の裏を通って鼻へ上がってくる。

こんなに「歯」が多い文章は見かけないし、生クリームを別の言葉に置き換えれば、別の生物の別の行為にも通じるような表現だ。

この数年、食事が重要な要素を占めている作品があって、食事(とそれに伴うアレコレ)の質が、そのまま生活(本人の気質とか人間関係とか)の質につながるかのように描かれていた。そういう面はあるのだろうけれど、食事は結局は個人的な行為であって、食事だけで何もかもが決まるものではない。きちんと家に帰って食べていた「藤さん」も、最終的には妻と決定的な溝ができてしまっているのが象徴的だ。

食事をめぐる流れの中で、食事の別の面に光を当てた作品が出てきたことは覚えておいてもよいだろう。