『アクシデンタル・ツーリスト』アン・タイラー

発表は1985年。1988年には映画化され、日本で公開されたときは「偶然の旅行者」の題名が付けられていたという。
『アクシデンタル・ツーリスト』は作品中では、主人公のメイコンが手掛けるビジネス旅行用のガイドブックのシリーズの名前として登場する。映画の「偶然の旅行者」ではなく「やむなき旅人」という訳が当てられている。
「やむなきって何?」といえば、そこは「ビジネスで」ということで相場が決まっている。予定の時間に遅れるのはよろしくないし、変なものを食べてお腹を下すのは避けるべきである。外国でも家と同じような生活を送れるようにしなければならない。そこで誕生したのが『アクシデンタル・ツーリスト』というガイドブック。「いかにすれば少ししか見ないですむか」ということをコンセプトして誕生した本だそうだ。
後半にはこの本の愛読者という人物が登場する。曰く、「『アクシデンタル・ツーリスト』と一緒に旅をするのは、カプセルに、繭に包まれて旅するようなものだ。」

このようなガイドブックを書くように、メイコンもトラブルやアクシデントを避けようとする人物として登場する。
自身の発言としては次のようなものがある。
「ぼくはそもそも人生にそんなに意味を感じた試しがないんだ」
「ぼくにはぼくのシステムがあるんだよ」
「腹を立てたって…そう、消耗するだけだということだ」
他人からのメイコン評は次のようなものがある。
「あんたは自分のことだけにとらわれて突き進でいるように見えるんだよ」
「あなたはただ硬化しているだけよ(略)カプセルに収められているようなものね。あなたは現実的なものは何も侵入させない、ひからびた種みたいな人間なのよ」
どういう人物なのか、わかってきたと思う。

メイコンの性格を形成したのは家庭環境もあるようで、放埒な母親とは対象的に慎重な人間として育つことになった。彼を含めた兄妹はリプリー家の人間としてある種の共通する性格が与えられ、互いのやりとりはコメディーにも見えてくる。
また、メイコンにはイーサンという息子がいたものの、まさに最悪の形での「偶然」により殺害されてしまう。このイーサンを失ったことへの戸惑い、罪悪感は何度も作中で蘇えることになる。彼自身、決して感情のない人間なのではなく、その感情を処理の仕方が極めて独特なのだ。

その彼の前に現れるのがミュリエルという女性。攻撃的な黒い縮毛にとても短い赤いショーツ、さらにミミズの這ったような字ということで、メイコンの人生では関わりを持たなかったであろう人物だ。彼女とは飼い犬のエドワードの「しつけ」から接点を持つことになる。そして、彼女の持つ意外性と自分自身の意外性を楽しむようになり、やがて深く関わりを持つようになる…。

主軸にあるのはメイコンとミュリエル、元妻のサラとのやり取りだが、リプリー家やミュリエルのプリチェット家、さらにミュリエルとその息子のアレクサンダーの関係も丹念に描かれる。
この作品では、メイコンに焦点を当てるためか、あまり父という存在が描かれていない。メイコンの実父は戦死しており、ミュリエルの父は、ミュリエルの過去が食卓の話題になったときに、雰囲気を変えるどころか自分の言いたいことだけを言って終わってしまい、その後は出てこない。それだけにアレクサンダーと関係を築いていくシーンは微笑ましい(水道の栓の修理はもちろん、手を握ってきたり、席を空けるシーンもさりげなくてよい)。

トラブルを回避しようとする場合、過去の経験を参考にする。起こりうる事態を想定して、自分でも他人の例でも構わないが、過去に取られたであろうできる限りの対策を講じておく。それでうまくいくことが多いので、過去は自分の一部のようになる。そうして過去をコントロールできていればいいのだが、不幸なアクシデントに見舞われた場合、過去が自分を拘束してしまう。言語化して他者と共有できるのならまだしも、それが不得手ならばメイコンのように抱え込まざるを得ない。

それをどうやって対処していくのか。最終章では過去の人物の成長に思いを馳せるという方法が挙げられている。
過去を忘れることではなく、檻から開放してともに歩む。アクシデントの乗り越え方の一つなのだろうと思った。

個人的に面白いのは、どう見ても保存状態が悪い七面鳥を『アクシデンタル・ツーリスト』の発行人のジュリアンが「おれは七面鳥をもらうよ」と言って食べるシーン。たぶん、彼はいいヤツ。