『女性兵士という難問』佐藤文香

数日前に、自衛官時代にセクハラの被害を受けた女性に対し、防衛省が謝罪するという出来事があった。その女性は、東日本大震災で被災した時に風呂の準備をしてくれた女性自衛官に憧れて自衛官になったという。そこで思ったのが、少女の風呂の準備をした女性自衛官は、いかなる理由で自衛隊員という職を選んだのか、ということであった。その系譜は、さらに遡ることができるかもしれない。東日本大震災で住民支援に貢献した女性自衛官は、イラクに派遣された女性自衛官に憧れたのかもしれない、そのイラクの派遣された女性自衛官は、さらにその前の女性自衛官を見て…というふうに。そして、同時に思ったのは、その歴代の女性自衛官の身近にも間違いなくセクハラは存在していただろうということ。彼女たちはセクハラに対していかなる態度をとっていたのだろうか。

この数年、フェミニズムは働く女性の立場を代弁したり、拠り所となってきた。しかし、自衛隊についてはどのような立場をとってきたのか。また、世界の軍隊で働く女性にとってはいかなる立場をとっていたのか。それを分析したのが本書である。以下、印象的な章を取り上げていく。

 

第一部 ジェンダーから問う戦争•軍隊の社会学

予想通り、女性が軍隊に参入することについてのフェミニズムの立場は一枚岩ではない。大きく二つの立場がある。女性が参入することで軍隊がよいものになるという楽観主義と、女性の軍事化を招くだけだという悲観主義である。本書は、そのどちらの立場に偏らずに「ジェンダーから軍隊を問う」ことを目的とする。具体的には、軍隊が女性を必要としているという現状と、その中の女性たちの経験を通した現代の軍隊の考察が書かれている。

軍隊についてジェンダーの面から考えてみよう。一般に軍隊といえば究極の体育会系であり、男社会というイメージがある。だからといって女性が意識されていないかというとそうでもない。兵士を「真の男」にするにはそれを献身的に支える女性が求められてきた。それは身体的・精神的な支えだけではなく、国を女性としてイメージさせることもその一つである。(「母なる祖国」といった表現もその一つだ)。また、新兵の訓練では女性的であることは侮蔑の対象であった。自分は映画の『フルメタルジャケット』の訓練シーンが真っ先に思いついた。

そういう環境下で働く女性の意識はどのようなものか。女性による内部的な改革が行われたのか。結論としては、このような場合、自身を特別な存在として女性一般への眼差しは共有したまま、男性の側に立つことになる。冒頭の件に戻れば、自衛隊が出来てから半世紀以上、声を上げることもできなかった、上げても外には届かなかったということである。

その一方で、軍隊に対して求められる役割は変化している。他国への侵攻や自国の領土保全だけではなく、第三国への派遣や自国の災害救助なども加わっている。新たな任務、特に住民に対する任務に関しては女性の方が「効果的」であろうという声がある。この声に乗じて女性兵士を増やすことは是なのか。何か覆い隠してしまっているものがあるのではないか。

第二部 女性兵士という難問

表題と同名のタイトルだが、女性兵士という難問とは、簡潔に言ってしまうと女性兵士を「加害者」として扱うのか、セクハラ・性暴力の「被害者」として扱うのかという問題である。

先に「被害者」の面から検討する。そもそも軍隊に入る女性がマイノリティな存在であること、また、経済的な問題を抱えていることが理由として存在する。そしてなぜ「被害者」になってしまうのかという点については、第一部のようにエリート女性と一般女性の間の分断が理由になる。自分は違うが、彼女らは「二流」というものだ。仮に訴え出ると自らの「二流」であることを示すことになり、組織に残ることができなくなる。その結果として組織の文化は温存される。これは一般企業でも同様だが、軍隊という身体により直結する場所においては、「二流」の証明はより秘匿したいものであろう。

「加害者」としての行為は、もちろん相手を殺傷することだ。この背景には、まず多くの分野が女性に門戸を開放したことがある。戦闘地域へ行く機会が増えれば、当然、相手を殺傷する可能性も高まる。その背景として本書で何回か挙げられるのは2000年に国連で採択された安保理決議1325号である。平和と安全保障の活動に女性の参加とジェンダー視点の導入を要求するものだ。現に、男女平等で国際的に有名な北欧では女性の徴兵もあるという。

これをフェミニズムの成果といえるか否か。確かに兵士も事務職員も職業という点では同じだし、過酷な環境に派遣された軍隊も、都会の高層マンションのオフィスも職場という点では同じだ。でも、それでいいのだろうか。

第三部 自衛隊におけるジェンダー

ここでは自衛隊の歴史をふまえたジェンダーの考察が行われる。事例も多いので、ここは興味深いと思われる。

自衛隊に対する好感度は昨今、非常に高いという。ただ、自分の子供の頃はそこまでではなかった。災害時は警察や消防隊員が対応していたし、テレビで駐屯地などが紹介されることもなかった。自衛隊というものがあって何か訓練をやっている、といった程度のものだった。私より年長の世代であれば、本書で紹介されているような隊員募集の姿を見たことがあるのかもしれない。要するに、市民社会自衛隊との間にはなんらかの壁があった。他国のようにフェミニズム運動との関わりも見られないし、逆に自衛隊の入隊経験が一般市民の責務を果たす上でプラスに作用することもなかった。本書では、その壁ゆえに、自衛隊は研究対象として格好の題材だという。自衛隊で行われたジェンダー対策は、ある意味、国家の意図がより純粋な形で反映されているということだろう。

まず、自衛隊の「親しみやすさ」は自衛隊の努力であるのだが、その他の理由があることも意識する必要がある。そもそも、アメリカ軍と密接な関係があったこと、高度成長期には人不足に陥ったこと、80年代の女性差別撤廃条約や、20世紀末の男女共同参画社会の国策化といった背景がある。

そして、軍隊に求められるものが帝国主義のようなものではなく、世界平和の維持に変化してきた点も注目すべき点だ。戦地における住民の保護や信頼獲得には女性の働きが大きいという。この点のみが強調されると、国際貢献のためにもっと女性兵士を!という主張になってしまう。果たしてそれでいいのだろうか。ここで挙げられた「そもそも兵士が多すぎる」という意見が自分の中でも見落とされていたことだ。ジェンダーを理由に何が行われているのか、その批判的な視点の重要性を気づかせてくれる。

 

というわけで。

大きな声に対する異論を唱えるのはとても難しい。新たな視点や方法論を用意しないといけないし入念な準備も必要だ。その点、フェミニズムはある程度の蓄積があって、まだまだ新たな知見を得られる分野もあるため、方法論として知っておくことは有用であると思う。

ただ、その手法だけでは乗り越えられないものもあるし、逆に取り込んだフリをして実態をカモフラージュするような事例も今後は出てくるだろう。自衛隊の好感度は非常に高いが、批判する声を潰してよいものではない。

また、フェミニズムに良い感情を持っていなかったとしても、そこで明らかにされた問題は放置していいはずはない。難問を忘れたふりをせずに絶えず意識化しておくこと。これも社会との関わり方の一つではないか。そんなことを思った。