『神馬/湖』竹西寛子

副題で精選作品集とあり、1989年に発行された自選短篇集のタイトルである『湖』と、2002年から2003年にかけて発行された『自選竹西寛子随想集』(のうち、高校の教科書に掲載されたもの)を合わせたものとなっている。

表題に選ばれている『神馬』は、1972年の作品。1985年には高校の教科書に選ばれている。少女が抱いていた共感や親近感が、島の馬の「機械的」な動作の前に残酷にも崩れてしまう過程を描いた作品だ。この時の少女の気持ちを言葉にするのは本当に難しい。「あはれ」という言葉はこんな時に使うのかもしれない。

この少女を「ひさし」という少年に置き換えたといえるものが、巻頭の『兵隊宿』『虚無僧』『蘭』の三作品。少年が、「自分がこれまで知らなかった新たな感情の世界」に触れた際の戸惑いが、具体的なエピソードを通じて描かれている。

一方、『春』と『迎え火』には老年をテーマとする作品である。老人が亡くなっても放置されているブロック、認知症と親子の対立といった描写には、少年と少女の進む世界の、ある種の厳しい結末が感じられる。

他に印象に残った作品として『鮎の川』を挙げておきたい。家族で過去に行ったという鮎の棲む川をもう一度訪れるという話である。まずは冒頭の文章。

「蛍が飛んでいた。」

と弟が言う。

「川の音が聞こえたわ、お座敷にいて。」

と私が言う。

「川原に続く庭の松の枝に、木の鳥居みたいなつっぱりがしてあったのを僕はおぼえている。」

そろそろ明かりの欲しい黄昏どきのような、そこがどことは知れない暗がりの中に、白絣を着た弟の上体だけがぼんやり浮き出している。

過去の記憶をめぐるやりとりが、会話形式で始まっている。私と弟という家族間の会話で、どうも読む側としては入りにくい。川のそばの家で蛍を見ていたことは分かるが、「鳥居みたいなつっぱり」と言うのも想像しにくいし、挙句に、暗がりの中の白絣にぼんやり浮いた弟と言うのが、ひどく曖昧な存在に見える。

この後、兄も登場し、兄弟間で思い出話をするものの、弟と兄の境界がなくなり、場所も霧の中の渓谷に移ってしまう。これは過去の記憶なのか、それとも夢なのか、分からないまま終わってしまう。

その後は一転して急に現実的な場面に入れ替わる。手元にあるのは山村聡の『釣りひとり』。山村聡は、あの俳優の山村聡で、おそらくこの作品が書かれた1975年ならば誰もが知っていたのだろう。この『釣りひとり』の描写に親近感を抱き、井伏鱒二の『川釣り』の一節を思い出すと、実際に川に向かうことになる。

ここから先は前半とは打って変わって具体的で、リズミカルだ。

瀬の音が聞こえる。

松風の音が聞こえる。

 

真紅は山百合だ。

乳色の苞が、玉蜀黍の実を守っている。

薄紫の茄子の花が、濃い黄の、胡瓜の花が、いまにも滴りそうな色に咲いている。

音の描写から一行を置いて、実にカラフルな情景が描かれている。かつて鮎釣りの名人だった運転手に導かれ、自分も一緒に川の源流までの旅に同行しているようだ。

さて、『鮎の川』が書かれたのは1975年だ。収録されている『時の縄』(1985年)によると、11年前に母が死んだ、とある。つまり、そういう時期の作品でもあるわけだ。鮎釣りを急にやめたという運転手の男性の話に何を感じたのか、そして、なぜ「カンスイエン」をもう訪ねることはあるまいと決断したのか。そんなことを考えると、美しさと悲しさが一体化した川の景色が見えたような気がした。