『語られざる占領下日本』小宮京

日本の占領期における人々の行動は、まだまだ不明な点が多い。導入で著者が取り上げるのは白洲次郎終戦から二十年が経過した頃のインタビューで、彼は「非常に忘れようと努力していることもある」と告げる。その理由として著者はGHQの資料を挙げる。そこにあったのは、後年の白洲次郎のイメージとは全くかけ離れた、御用聞きのような姿であった。

もっとも、GHQの資料が当時の実相を伝えていたかというと疑問がある。いわゆる、勝者の歴史ということかもしれない。そこで最近の占領期の研究では日本側の史料も使用することで相対化を図る試みが取られているという。本書はそのような史料も用いることで占領期日本の一面を明らかにするものである。

最初に取り上げられるのは谷川昇という人物である。渡米してハーバード大学を卒業するという華々しい経歴を持つが、あくまでも東京都という自治体で勤務した人で、今でいう地方公務員であった。それが敗戦で一変する。アメリカ留学の経験を買われ、山梨県知事を経て内務省の警保局長へと抜擢される。

その背景にあったのはGHQによる制度改革の指令で、地方行政に詳しく、英語ができ、ハーバードでの人脈を持つ谷川は打ってつけの人物であった。

ちなみに、この時の内務省の状況がすごい。何しろ公職追放で実情を知っている役人は誰もおらず、下級の職員が一人いるだけだった。しかも書類は全てGHQが持ち去っていたという。国の省庁の局長が、課の一般職員と二人だけで作業を進めるというのは、今では考えられない光景だろう。

しかしながら、やがて谷川自身も公職追放に遭ってしまう。表向きは過去の経歴だが、実際はGHQの内部対立に巻き込まれた可能性が高いという。このあたりの話はまさに「運命のいたずら」という感がする。そして追放中に広島カープの創設に関わるのだが、その理由もGHQとの折衝に備えて、というものであった。カープの創設と野球連盟への加盟を果たすものの、やはりGHQによって球団経営から手を引くように指示されることになる。

この章を読むと、まさに運命に翻弄された人という印象を受ける。東京都の役人で退職するところ、その経歴ゆえに抜擢される。しかし、就いたのが警察関係であったことから、GHQの内部争いに巻き込まれ、後々まで影響を受けることになってしまう。著者は「代理戦争の犠牲者」として呼んでおり、まさにその通りだと思った。

 

占領期においてGHQとのコネクションを如何にして持つのか、そして掴んだらはなさないようにするか、ということは文字通り死活問題であったのだろう。谷川昇よりも、もっと政治に深く関わっていた人々が第二章以降で取り上げられる。政治家である。以下、簡単にまとめておきたい。

第二章で登場するのは三木武夫。三木といえばクリーン三木。だが、本章の前半で著者はそのイメージは、田中角栄との対比で形成されてきたのではないかという。それ以前の行動はまさに「バルカン政治家」にふさわしいものであった。

まずは三木人脈として三人の人物が出てくる。福島慎太郎、平澤和重、松本瀧蔵の三名である。福島と平澤はアメリカでの勤務経験がある元官僚、松本は日系二世の代議士であった。要するに戦後直後の日本で重要な知米派であり、公職追放にも影響を及ぼしていたという。三木はこういう人々と強固なつながりを得ていたわけで、三国志で言えば、勢力は小さいけれども最初から有力な武将を揃えている誰かの姿が思いつく。

さらには、いわゆる山崎猛首班工作事件において、当時の中道政党を率いていた彼は連立政権の可能性もあることから首班の打診すら受けていたという。ここで受けていたらどうなったのか、考えてみると面白い。

第三章はフリーメイソンと日本政治との関係で、出てくるのは自身も会員である参議院議員の河井弥八という人物である。

日本史の本で、フリーメイソンが出てくるとちょっと怪しい感じもするが、鳩山一郎が実際に会員になっており、フリーメイソンの中で昇進したことが当時の毎日新聞で報じられたという。

ただ、そこはやはり政治家。フリーメイソンもあくまでGHQとのコネクションの一環という見方であり、先の河井もやがては退会することになる。

第四章に登場するのは田中角栄。世代や当時の立場もあってGHQとの関係ではなく、山崎猛首班工作における田中の実際の行動を明らかにするものである。

結論としては後に語られるような浪花節的な振る舞いはしておらず、戸川猪佐武という書き手を得て、福田赳夫(経歴的には官僚を経て旧自由党の議員として当選した彼の方が保守本流という見方もあったという。)との対抗から生み出されたイメージであった。

 

日本史のテストにおいて第二次世界大戦後の様々な改革は明治政府の改革とともに頻出であり、ドラマ等でも盛んに描かれるため、日本人の中で一定のイメージが形成されていることと思う。日本の占領が戦後日本の原点であることはそのとおりであるが、それを駆動させる政治空間は極めて現実主義的な空間であったことは忘れられがちである(というよりも複雑すぎて覚えられないのが実感である)。占領期の厚みを実感させてくれる一冊であった、そんなことを思った。