『荒地の家族』佐藤厚志

職場で2011年の3月11日が話題になると、自分はあの時どうしていた、という話になりやすい。職場で、学校で、家で、あの時に遭遇した個別の体験談が、人々の前で語られる。話す人はもちろん、聞く人にも見た映像が聞こえた音が呼び起こされる。言ってしまえば時間がよみがえるということだ。

平成の文学史において、そのような「物語」が数多く生まれた時期が確かにあった。そういった「物語」は被害を直接に描くというよりは、幻想的に、あるいはSF的に、「あの出来事」といった形で背景や語りの中に溶け込んでいくことになった。希釈化と言ってもいいだろう。その中で、震災とそれに見舞われた人間の生活を直接的に描いたのが本書である。

概要

主人公の坂井祐治は40歳の男性で個人で造園業を営んでいる。息子の啓太は小学六年生で親子関係に変化が見られる年頃である。かつては妻の晴海がいたのだが、病気で先に亡くなってしまう。知加子という女性と再婚するものの、彼女は流産してしまい、結局は離婚してしまう。

造園も個人でやっているので、できる範囲は限られる。京介という若者を雇おうとするのだが結局はうまくいかない。

もっとも孤立しているわけではない。役場で働く友人の河原木は祐治に細かい仕事を回しており、母の和子が事務作業や啓太の世話を見ている。啓太に差し入れを持ってくる地域の住人もいる。

また、六郎という老人もいる。六郎は、祐治の父の孝にとって部下であった人物で、孝の死後はいろいろと面倒を見てくれたり話し相手になってもらっていたりする。その六郎の息子が祐治と同じ年の明夫である。明夫は職を点々として現在は地元に戻って中古車販売店で働いている。

明夫は「俺に触んな、お前に何がわかんだよ」の台詞が悲しく聞こえるように、裏の主人公といった役回りで、やがては悲劇的な最期を迎えることになる。

生活風景

自分がこのような生活をしているわけではないが、日本のどこかにありそうだな、と思った。それだけリアリティがあるように思えた。

例えば、子供の頃から続く明夫との横の関係、中学や高校、職場で生じる縦の関係。これを逃れようとすると、大きな代償が身体的にも精神的にも課せられる、あの関係である。西島農園での野本とのやり取りは息苦しさを感じさせる。

(そういえば、あの頃に「絆」という言葉が広まったが、手元の辞書だと「断とうにも断ち切れない人の結びつき」とあった。随分と恐ろしい言葉だと思った。)

主人公の職業が造園業だけあって多くの植物と、肉体労働の描写が登場する。自分は、京介のように花が咲いていなければどれがツバキか分からないほどの知識なので植物の方は残念だが、それでも仕事中の汗や息づかいなどそういったものを身近で感じることはできた。

また、これは個人的に印象に残ったのが、都会である仙台と主人公の生活する「田舎」との対比である。知加子に会おうとする主人公は、会社の上司などに拒絶される。彼らよりも身体的には強いはずの主人公が、拒絶されるのが何とも言えない。

構成上の特徴

 まず印象的なのは海へ行く回数の多さ。その海の描かれ方もこんな感じだ。

荒ぶる海は波が高く立ち、潮が煙っていた。足場がなければ人が生きられない世界。見通しが悪く、果てしない。ただただ広く、時間も距離も消え、灰色の虚無が横たわっていて自分が今立っている場所を見失いそうになる。

厚く黒い雲の下、航行する船のない海はあの世を思わせ、波の寄せては引く浜辺は常に生と死のせめぎ合いを想起させた。黄泉から無数の死者の手が伸びてきて、死が迫るようだ。ひと言呼びさえすれば、即座に死者が応え、引き寄せられ、あっという間に波の間に飲み込まれそうだ。

自分は原民喜の『夏の花』に通じる表現のように思った。日本のある世代に焼け野原の光景が共有されていたように、今の日本に生きる世代には、この海の姿も共有されているのではないだろうか。津波の海が真っ黒であること、生活の場がまるで当たり前のように侵犯されることを我々は知っている。

ただ、震災直後とは異なる点として防波堤の存在がある。この圧迫感もこの小説の中には何度も視界を遮られる存在として描かれている。忘れてしまいたいのだけれども、その大きさゆえに存在を意識せざるを得ない、嫌な記憶に対する蓋のように思えた。

地理的な話

逢隈や亘理駅といった駅名が登場する。亘理町仙台市から少し南に位置しており、亘理駅と仙台駅は常磐線で30分程度。朝夕は一時間に三本の電車もあるが、それ以外は一時間に一本程度となる。

作中で何回か近所の人がリンゴやイチゴを持ってくるシーンがある。亘理町の総合計画によるとリンゴとイチゴの栽培は昭和の初め頃から始まっていて、特にイチゴの方は生産量も多いとか。

あと、作中では描かれていないものの、はらこ飯も名産品だそうだ。本作でも釣りのシーンが何度か出てくる。地元や仙台市民の身近な釣りスポットになっているのかもしれない。

亘理町のサイトより。イチゴがおいしそうである。

https://www.town.watari.miyagi.jp/tourism/detail.php?content=146

男女•家族

主人公の父はこのように描かれる。

親父の孝は家族に対して寡黙で何を考えているかわからず、単身赴任で家にいない時間が多かったせいで、顔を合わせても何を話してよいかわからなかった。孝が祐治に聞くのは「リモコンはどこだ」とか「和子はどこだ」とかそんなことだけで、祐治から話しかけるのは稀だった。

ある種に父親の典型であろう。言葉の少なさは主人公にも伝わっているところであり、仕事に精を出すことで時の解決に任せることは、結局のところ見て見ぬふりにすぎないことが、晴海の体調悪化の場面でも、知加子の流産の前の場面でも描かれる。

晴海へ思いは幽霊(というか幻影)として主人公の前に立ち現れ、知加子との生活はしばしば噛まれた記憶として蘇ってくる。主人公が肉体労働者だからであろうか、過去の未練や記憶を視覚や痛覚を通じて描くのが特徴的だと思った。

将来

過去の記憶が何度も繰り返され、螺旋巡りをしているような本作だが、そのような中でも成長を見せている存在として啓太を挙げておきたい。

親の祐治に比べて内向的として描かれるものの、近所の人に挨拶をする点や親の祐治に手を置く点は、それまでの世代の男性とは異なるイメージを与える。また、最後に、それまで止まっていた時の流れを一気に浴びたかのように頭髪が白くなってしまった祐治を見て、ゲラゲラと笑い出すシーンがある。自分は、そこに親が感じた苦味を笑い飛ばすような子供の元気を見たような気がした。