『女性兵士という難問』佐藤文香

数日前に、自衛官時代にセクハラの被害を受けた女性に対し、防衛省が謝罪するという出来事があった。その女性は、東日本大震災で被災した時に風呂の準備をしてくれた女性自衛官に憧れて自衛官になったという。そこで思ったのが、少女の風呂の準備をした女性自衛官は、いかなる理由で自衛隊員という職を選んだのか、ということであった。その系譜は、さらに遡ることができるかもしれない。東日本大震災で住民支援に貢献した女性自衛官は、イラクに派遣された女性自衛官に憧れたのかもしれない、そのイラクの派遣された女性自衛官は、さらにその前の女性自衛官を見て…というふうに。そして、同時に思ったのは、その歴代の女性自衛官の身近にも間違いなくセクハラは存在していただろうということ。彼女たちはセクハラに対していかなる態度をとっていたのだろうか。

この数年、フェミニズムは働く女性の立場を代弁したり、拠り所となってきた。しかし、自衛隊についてはどのような立場をとってきたのか。また、世界の軍隊で働く女性にとってはいかなる立場をとっていたのか。それを分析したのが本書である。以下、印象的な章を取り上げていく。

 

第一部 ジェンダーから問う戦争•軍隊の社会学

予想通り、女性が軍隊に参入することについてのフェミニズムの立場は一枚岩ではない。大きく二つの立場がある。女性が参入することで軍隊がよいものになるという楽観主義と、女性の軍事化を招くだけだという悲観主義である。本書は、そのどちらの立場に偏らずに「ジェンダーから軍隊を問う」ことを目的とする。具体的には、軍隊が女性を必要としているという現状と、その中の女性たちの経験を通した現代の軍隊の考察が書かれている。

軍隊についてジェンダーの面から考えてみよう。一般に軍隊といえば究極の体育会系であり、男社会というイメージがある。だからといって女性が意識されていないかというとそうでもない。兵士を「真の男」にするにはそれを献身的に支える女性が求められてきた。それは身体的・精神的な支えだけではなく、国を女性としてイメージさせることもその一つである。(「母なる祖国」といった表現もその一つだ)。また、新兵の訓練では女性的であることは侮蔑の対象であった。自分は映画の『フルメタルジャケット』の訓練シーンが真っ先に思いついた。

そういう環境下で働く女性の意識はどのようなものか。女性による内部的な改革が行われたのか。結論としては、このような場合、自身を特別な存在として女性一般への眼差しは共有したまま、男性の側に立つことになる。冒頭の件に戻れば、自衛隊が出来てから半世紀以上、声を上げることもできなかった、上げても外には届かなかったということである。

その一方で、軍隊に対して求められる役割は変化している。他国への侵攻や自国の領土保全だけではなく、第三国への派遣や自国の災害救助なども加わっている。新たな任務、特に住民に対する任務に関しては女性の方が「効果的」であろうという声がある。この声に乗じて女性兵士を増やすことは是なのか。何か覆い隠してしまっているものがあるのではないか。

第二部 女性兵士という難問

表題と同名のタイトルだが、女性兵士という難問とは、簡潔に言ってしまうと女性兵士を「加害者」として扱うのか、セクハラ・性暴力の「被害者」として扱うのかという問題である。

先に「被害者」の面から検討する。そもそも軍隊に入る女性がマイノリティな存在であること、また、経済的な問題を抱えていることが理由として存在する。そしてなぜ「被害者」になってしまうのかという点については、第一部のようにエリート女性と一般女性の間の分断が理由になる。自分は違うが、彼女らは「二流」というものだ。仮に訴え出ると自らの「二流」であることを示すことになり、組織に残ることができなくなる。その結果として組織の文化は温存される。これは一般企業でも同様だが、軍隊という身体により直結する場所においては、「二流」の証明はより秘匿したいものであろう。

「加害者」としての行為は、もちろん相手を殺傷することだ。この背景には、まず多くの分野が女性に門戸を開放したことがある。戦闘地域へ行く機会が増えれば、当然、相手を殺傷する可能性も高まる。その背景として本書で何回か挙げられるのは2000年に国連で採択された安保理決議1325号である。平和と安全保障の活動に女性の参加とジェンダー視点の導入を要求するものだ。現に、男女平等で国際的に有名な北欧では女性の徴兵もあるという。

これをフェミニズムの成果といえるか否か。確かに兵士も事務職員も職業という点では同じだし、過酷な環境に派遣された軍隊も、都会の高層マンションのオフィスも職場という点では同じだ。でも、それでいいのだろうか。

第三部 自衛隊におけるジェンダー

ここでは自衛隊の歴史をふまえたジェンダーの考察が行われる。事例も多いので、ここは興味深いと思われる。

自衛隊に対する好感度は昨今、非常に高いという。ただ、自分の子供の頃はそこまでではなかった。災害時は警察や消防隊員が対応していたし、テレビで駐屯地などが紹介されることもなかった。自衛隊というものがあって何か訓練をやっている、といった程度のものだった。私より年長の世代であれば、本書で紹介されているような隊員募集の姿を見たことがあるのかもしれない。要するに、市民社会自衛隊との間にはなんらかの壁があった。他国のようにフェミニズム運動との関わりも見られないし、逆に自衛隊の入隊経験が一般市民の責務を果たす上でプラスに作用することもなかった。本書では、その壁ゆえに、自衛隊は研究対象として格好の題材だという。自衛隊で行われたジェンダー対策は、ある意味、国家の意図がより純粋な形で反映されているということだろう。

まず、自衛隊の「親しみやすさ」は自衛隊の努力であるのだが、その他の理由があることも意識する必要がある。そもそも、アメリカ軍と密接な関係があったこと、高度成長期には人不足に陥ったこと、80年代の女性差別撤廃条約や、20世紀末の男女共同参画社会の国策化といった背景がある。

そして、軍隊に求められるものが帝国主義のようなものではなく、世界平和の維持に変化してきた点も注目すべき点だ。戦地における住民の保護や信頼獲得には女性の働きが大きいという。この点のみが強調されると、国際貢献のためにもっと女性兵士を!という主張になってしまう。果たしてそれでいいのだろうか。ここで挙げられた「そもそも兵士が多すぎる」という意見が自分の中でも見落とされていたことだ。ジェンダーを理由に何が行われているのか、その批判的な視点の重要性を気づかせてくれる。

 

というわけで。

大きな声に対する異論を唱えるのはとても難しい。新たな視点や方法論を用意しないといけないし入念な準備も必要だ。その点、フェミニズムはある程度の蓄積があって、まだまだ新たな知見を得られる分野もあるため、方法論として知っておくことは有用であると思う。

ただ、その手法だけでは乗り越えられないものもあるし、逆に取り込んだフリをして実態をカモフラージュするような事例も今後は出てくるだろう。自衛隊の好感度は非常に高いが、批判する声を潰してよいものではない。

また、フェミニズムに良い感情を持っていなかったとしても、そこで明らかにされた問題は放置していいはずはない。難問を忘れたふりをせずに絶えず意識化しておくこと。これも社会との関わり方の一つではないか。そんなことを思った。

『アクシデンタル・ツーリスト』アン・タイラー

発表は1985年。1988年には映画化され、日本で公開されたときは「偶然の旅行者」の題名が付けられていたという。
『アクシデンタル・ツーリスト』は作品中では、主人公のメイコンが手掛けるビジネス旅行用のガイドブックのシリーズの名前として登場する。映画の「偶然の旅行者」ではなく「やむなき旅人」という訳が当てられている。
「やむなきって何?」といえば、そこは「ビジネスで」ということで相場が決まっている。予定の時間に遅れるのはよろしくないし、変なものを食べてお腹を下すのは避けるべきである。外国でも家と同じような生活を送れるようにしなければならない。そこで誕生したのが『アクシデンタル・ツーリスト』というガイドブック。「いかにすれば少ししか見ないですむか」ということをコンセプトして誕生した本だそうだ。
後半にはこの本の愛読者という人物が登場する。曰く、「『アクシデンタル・ツーリスト』と一緒に旅をするのは、カプセルに、繭に包まれて旅するようなものだ。」

このようなガイドブックを書くように、メイコンもトラブルやアクシデントを避けようとする人物として登場する。
自身の発言としては次のようなものがある。
「ぼくはそもそも人生にそんなに意味を感じた試しがないんだ」
「ぼくにはぼくのシステムがあるんだよ」
「腹を立てたって…そう、消耗するだけだということだ」
他人からのメイコン評は次のようなものがある。
「あんたは自分のことだけにとらわれて突き進でいるように見えるんだよ」
「あなたはただ硬化しているだけよ(略)カプセルに収められているようなものね。あなたは現実的なものは何も侵入させない、ひからびた種みたいな人間なのよ」
どういう人物なのか、わかってきたと思う。

メイコンの性格を形成したのは家庭環境もあるようで、放埒な母親とは対象的に慎重な人間として育つことになった。彼を含めた兄妹はリプリー家の人間としてある種の共通する性格が与えられ、互いのやりとりはコメディーにも見えてくる。
また、メイコンにはイーサンという息子がいたものの、まさに最悪の形での「偶然」により殺害されてしまう。このイーサンを失ったことへの戸惑い、罪悪感は何度も作中で蘇えることになる。彼自身、決して感情のない人間なのではなく、その感情を処理の仕方が極めて独特なのだ。

その彼の前に現れるのがミュリエルという女性。攻撃的な黒い縮毛にとても短い赤いショーツ、さらにミミズの這ったような字ということで、メイコンの人生では関わりを持たなかったであろう人物だ。彼女とは飼い犬のエドワードの「しつけ」から接点を持つことになる。そして、彼女の持つ意外性と自分自身の意外性を楽しむようになり、やがて深く関わりを持つようになる…。

主軸にあるのはメイコンとミュリエル、元妻のサラとのやり取りだが、リプリー家やミュリエルのプリチェット家、さらにミュリエルとその息子のアレクサンダーの関係も丹念に描かれる。
この作品では、メイコンに焦点を当てるためか、あまり父という存在が描かれていない。メイコンの実父は戦死しており、ミュリエルの父は、ミュリエルの過去が食卓の話題になったときに、雰囲気を変えるどころか自分の言いたいことだけを言って終わってしまい、その後は出てこない。それだけにアレクサンダーと関係を築いていくシーンは微笑ましい(水道の栓の修理はもちろん、手を握ってきたり、席を空けるシーンもさりげなくてよい)。

トラブルを回避しようとする場合、過去の経験を参考にする。起こりうる事態を想定して、自分でも他人の例でも構わないが、過去に取られたであろうできる限りの対策を講じておく。それでうまくいくことが多いので、過去は自分の一部のようになる。そうして過去をコントロールできていればいいのだが、不幸なアクシデントに見舞われた場合、過去が自分を拘束してしまう。言語化して他者と共有できるのならまだしも、それが不得手ならばメイコンのように抱え込まざるを得ない。

それをどうやって対処していくのか。最終章では過去の人物の成長に思いを馳せるという方法が挙げられている。
過去を忘れることではなく、檻から開放してともに歩む。アクシデントの乗り越え方の一つなのだろうと思った。

個人的に面白いのは、どう見ても保存状態が悪い七面鳥を『アクシデンタル・ツーリスト』の発行人のジュリアンが「おれは七面鳥をもらうよ」と言って食べるシーン。たぶん、彼はいいヤツ。

『おいしいごはんが食べられますように』高瀬隼子

「おいしいごはんが食べられますように」というのは考えてみると変な言葉だと思う。料理を作った当人が、これから食べてもらう人にかける言葉ではないだろう。「食べられますように」だからお祈り文のようなもので、これを言われた本人がその後に食べるかどうかは未確定であるし、「おいしい」かどうかはさらに分からない。
結局のところ、なんとなく何かいいことを言っていそうで、言われた方も特に返す言葉もない、そんなふわっとした言葉なのだ。

主な登場人物は、男性社員の二谷、女性社員の押尾と芦川さん(「さん」を外して呼ぶことができない類の人物だ)

この「おいしいごはんが食べられますように」の言葉がもっとも似合いそうなのが芦川さんで、食事嫌いの二谷に料理のアドバイスを話してくる。言葉だけならばともかく、料理には実際にモノがある。
やがて、職場で毎日のように芦川さんのお手製のお菓子が振る舞われることになる。職場という極めて現実的な場所が、個人の「好き」で覆われていく過程は、「文学」を諦めた二谷や、「チア」にそこまでの熱意を持てなかった押尾には受け入れ難いものに映る。

ケーキを食べるシーンはこんなふうに描かれる。

生クリームが口の中いっぱいに広がる。歯の裏まで、奥歯の上の歯茎に閉じられた空間にまで入り込んでくる。みかんとキウイを噛んで砕く。じゅわっと汁が広がる。その範囲をなるべく狭めたくて、顎をちょっと上げて頭を傾ける。噛みしめるたびに、にちゃあ、と下品な音が鳴る。舌に塗られた生クリーム、その上に果物の汁。スポンジがざわざわ、口の中であっちこっちに触れる。柔らかいのと湿っているのとがあって、でもクリームと果物の汁で最後には全部じわっと濡れる。噛んですり潰す。飲み込む時、一層甘い重い匂いが喉から頭の裏を通って鼻へ上がってくる。

こんなに「歯」が多い文章は見かけないし、生クリームを別の言葉に置き換えれば、別の生物の別の行為にも通じるような表現だ。

この数年、食事が重要な要素を占めている作品があって、食事(とそれに伴うアレコレ)の質が、そのまま生活(本人の気質とか人間関係とか)の質につながるかのように描かれていた。そういう面はあるのだろうけれど、食事は結局は個人的な行為であって、食事だけで何もかもが決まるものではない。きちんと家に帰って食べていた「藤さん」も、最終的には妻と決定的な溝ができてしまっているのが象徴的だ。

食事をめぐる流れの中で、食事の別の面に光を当てた作品が出てきたことは覚えておいてもよいだろう。

『ピラネージ』スザンナ・クラーク

読み手の想像力に挑むような小説は、年齢のせいか昔からの性分のせいか、なんとなく苦手意識がある。「なんでこうなった」とか「どうしてこうなるのか」という疑問が解決されないまま、展開の方が先に進んでしまって追いつけないような感じになる。以前、スリップストリームというジャンルの本を読んだときには本の厚さに比べて、かなりの苦労をしたものだ。

この作品の冒頭はこんな感じ。

第三北広間が昇ったとき、僕は第九玄関に行った。三つのが合流するのを見るためだ。これは八年に一度しか起こらない。

第九玄関は巨大な階段が三つあるという点で注目に値する。際には厖大な数の大理石のが何にも重なって並び、はるかな高みへと上っていく。

この本は日記形式なので、各項目には年月日が記載されている。最初の章だと「アホウドリ西広間群を訪れた年、第五の月初日の記載」という具合。第一章は館の構造や「僕」が見つけた骸骨、書いている日記、広間に立つ像の説明が書かれている。

この段階で、この世界観に浸ることができればそれはよし。できなかったら、もう少し辛抱してみよう。二章からは「もうひとり」が登場し、館の探索が始まっていく。「僕」と一緒にゆっくりと挑んでいけばいい。自分はFF12のクリスタル・グランデや大灯台などをイメージしながら読んでいった。終盤では「僕」や「もうひとり」の正体、彼らが館にいる理由が明らかになる。この物語は、これらの理由をきちんと説明してくれる点で親切であり、館が「僕」にとってどういう存在であったのか、そしてどのように変化していったのかを描き出したことが特徴的だ。

 

ある程度の数のロールプレイングゲームをプレーしたことのある人ならば、記憶に残っている迷宮なりダンジョンといったものがあると思う。強いボスを倒したり、強力な武器や防具が手に入ったりしたときは満足感が得られたことと思う。その舞台であった迷宮の姿も懐かしい姿として、記憶に残っているのではないだろうか。

この本を読み終わった頃には、この館もその一つに加わっていると嬉しい。現実の慌ただしさに迷ったとき、やさしく迎えてくれるだろう。

『眠りの航路』呉明益

呉明益の本を手に取るのは『自転車泥棒』についで二冊目である。他にも邦訳作品がある中で『眠りの航路』を選んだのは、『自転車泥棒』でこの作品が言及されていただけではなく、戦時中の日本の海軍工廠での生活が描かれていること、さらに、三島由紀夫が登場するからである。もっとも、自分自身にとっては、三島由紀夫は歴史的な人物であり、映像や著作から受ける一定の印象はあるものの、彼と同時代に生きた人が受けたであろうほどの印象はない。要するに、台湾の作家が日本をどう描くか、歴史的な人物とどのような関係を持つのか、というところに惹かれたものである。

 

話の大筋としては、睡眠障害に悩まされる物書きの「ぼく」と、その父で日本に渡って工廠で生活を送る「三郎」の話を織り交ぜながら、台湾の各時代を背景に、家族の歴史を描いていくというもの。睡眠障害の治療のために「ぼく」が日本を訪問する場面があり、途中で工廠跡の碑文を見るシーンもある。

 

面白いのは、「ぼく」と「三郎」だけではなく、大人になった「父」や、「三郎」が飼っていた亀、B29に搭乗していた米軍兵士、さらに観音の視点でも描かれることである。他にも夢に関する解説、ゼロ戦堀越二郎の話なども盛り込まれている。視点の多様さはこの物語の幅の広さを、随所に挟まれた医学的情報や史実は深さを広げてくれるようだ。

 

「訳者あとがき」では「台湾における歴史の断絶や戦後における再植民地/国民化の試みなど、様々な問題が包括されている」とある。まさにそのとおりで、特に使う言葉の問題には考えさせられる。印象的なのは「三郎」を「あなた」と呼ぶ2章の12節のこの部分。

「あなたの知っている文字には限りがあったし、その頭はある言語によって占領され、少年時代に感じた憤怒や恐慌、愛情に悲しみといったものは、すべてその言語が持つ文法とセンテンス、修辞によって構成され、現在テレビから流れる言語でそれらを思い出すことは難しかった。だからこそ、あなたは今ここでこうして座っているしかなかった。耳鳴りがもち込む過去の記憶にしがみつかれ、現在をかき乱されるのをジッと待つしかなかったのだ。」

こうした態度がもたらす影響は、後の3章19節で「ぼく」の視点から次のように語られる。

「父さんはこれまで一度だって自分の話なんかしたことがなかった。兄弟や両親のことさえ語ろうとしなかったし、記憶のなかではほとんど物語や昔話をしてくれなかった。ぼく自身がそうした物語のない少年時代を送ってきたわけで、父さんの物語について語ることはできないし、それはただ想像するしかなく、またそれを本人に尋ねてみようと思ったことすらなかった。」

最終的に父は行方不明になってしまって「ぼく」との会話は描かれない。また、恋人だったアリスも、結婚の話をしても態度がはっきりしない「ぼく」に業を煮やしたのか、別れてしまう。

なぜ「ぼく」は父やアリスとの関係を一段階進めることをためらったのか。「父と子」や「夫と妻(と子供)」といった関係を築くことをためらうのか。自分は「父」の後ろに「日本」、「アリス」の後ろに「西洋」の姿を見た。「ぼく」自身の立ち位置が定まっていない状態で、それらに取り込まれるわけにはいかないのだろう。(最後まで一緒にいたのが台湾語の使い手である「母」であることは示唆的だ。)

とはいえ、人というものは、その人がいなくなったからといって記憶を抹消できるほど都合良くできてはいない。むしろ、より強く意識させられるものだ。

この作品では、その人の過去を想像するという方法で、関係を結び直そうと試みている。もちろん、想像は個人的な行為である。しかし、主体的な行為でもある。作者によれば、実際に父の写真を見たことがこの小説を書くきっかけになったという。

自分の周囲には、いまだ目に触れられていない家族の写真がまだまだあるはずだ。その写真を見たとき、想像に至ることはできるのか、断絶を乗り越える勇気があるか。そんなことを考えた。

 

『デュー・ブレーカー』エドウィージ・ダンティカ

『息吹、まなざし、記憶』にも登場した、トントン・マクートの暴力について関心があったため、引き続き手に取ってみたところ。「デュー・ブレーカー」は「朝露を蹴散らす者」から転じて「拷問執行人」という意味になるという。

九つの作品からなる短編集で、それぞれが直接的に、あるいは間接的につながっている。

死者の書
導入的な作品。語り手の私は、父と一緒にハリウッドスターのガブリエル・フォンテヌーのもとに彫刻を持って訪問するが、途中で父が失踪してしまう。ミステリー仕立てのストーリーの中で父の過去が描かれる。過去の父と母に何があったのか、なぜ、ガブリエル一家と違ってハイチに行こうともしないのか。父の外見の特徴である富士額や右頬の傷跡は、この後の作品でも何度か見かける特徴である。

『セブン』
先にアメリカに渡った夫が妻を七年ぶりに呼び寄せるという話。夫は他に二人の男と同居していて、その男同士のやり取りなどコミカルな部分はあるものの、妻が空港で受けた乱暴な荷物調査や、ハイチ系アメリカ人の殺害事件などが挟まれ、暗い印象も受ける。

水子
アメリカで看護師として働くナディンと、その両親、そして患者で発話障害を負ったハインズを中心に、親子関係が対比的に描かれる。ラストのエレベーターでの別れのシーンは、文字通り「すべてのこと」を象徴しているように思われた。

『奇跡の書』
冒頭の『死者の書』で登場した家族が、クリスマスのミサに出かけたときの話。かつてハイチで「死の部隊」を率いていた人物と似ている男が現れ、一家に動揺が走る。
その一方で母親のアンに弟がいて、幼い頃に海で溺れ死んだことが明らかになる。

『夜話者』
アメリカからハイチに戻ってきた青年の話。青年の名前である「ダニー」は『セブン』でも出てくる名前である。ダニーはかつて富士額の男に両親を殺され、叔母のエスティナに育てられるが、エスティナ自身もその際に目に傷を負ってしまう。
30ページほどであるものの、富士額の男との対峙、エスティナの死、刑務所帰りのクロードの話とエピソードが続き、様々な死の受容が描かれる。

『針子の老婦人』
ウェディングドレスの製作者のベアトリスと、彼女にインタビューを試みるアリーンの話。ベアトリスは、ハイチ時代に拷問を受けており、今でも近所にそのときの看守が住んでいるとアリーンに話す。アリーンがその家を訪問すると、その家はすでに空き家。それをベアトリスに伝えると…。
『夜話者』から一変して、人生を「大きな怒り」で占められてしまった人の存在が重い。

『猿の尻尾(一九八六年二月七日/二〇〇四年二月七日)』
1986年はベビー・ドクと言われたジャン=クロード・デュヴァリエが亡命した年で、その頃の争乱を背景に「僕」と友人(ロマン)との別れを描いている。
「僕」には商店を経営する父(ムッシュ・クリストフィ)がいるが、父子としての関わりはない。そんな「僕」にとってロマンは魅力的な年上の友人だったものの、ロマンの父のレグルスが政権側の有力者であったために、離ればなれになってしまう。「僕」とムッシュ・クリストフィ、ロマンとレグルス、さらにデュヴァリエ父子という三組の親子を通して、父の立場が子に及ぼす影響を考えさせるものとなっている。
ちなみに「僕」は「ミシェル」と呼ばれており、『セブン』にも名前が出てくる。

『葬式歌手』
マンハッタンで英語を勉強するハイチ出身の女性三人組が描かれる。『息吹、まなざし、記憶』のように比較的最近の話なのかなと思いきや、70年代の話であったことが途中で判明する。三人がアメリカに来た背景にはいずれも暴力や貧困があり、彼女たちが乾杯を掲げた未来にあってもなおも解決していないことを考えると、なんともやるせない気分になる。

『デュー・ブレーカー 一九六七年頃』
最終話のこの作品で『死者の書』と『奇跡の書』の「父」と「母」の過去が明らかになる。あえて核心に踏み込まないことで、関係を保ってきた家族。その均衡が崩れたときに何が現れるのかー。

というわけで、どの作品にも暴力が密接に関わっており、登場人物にとって忘れることのできない出来事となっている。その一方で、直接の暴力を受けていない若者や赤子も登場させていることに注目したい。語るべき相手がいなければ、当然、過去の暴力の重みに耐えきれないだろう。そのような中で、過去の記憶を継承する世代をきちんと用意していることに作者の優しさを感じた。

『息吹、まなざし、記憶』エドウィッジ・ダンディカット

エドウィッジ・ダンディカットはハイチ出身の作家で、この作品以降はおもに作品社から、エドウィージ・ダンティカの名前で邦訳が出版されている。
これは彼女のデビュー作で、作品中でも重要な色である赤の装丁が目を引く。

主人公は12歳の女の子のソフィー。伯母のアティーと生活している。母親のマーティンはアメリカで働いていて、稼いだお金とメッセージを録音したテープを送ってくる。
ある日、ソフィーは母に呼び寄せられ、アメリカに渡り、新しい生活が始まる。やがてソフィーは成長して、子供が生まれて、そして…というストーリーである。

家族をテーマとする小説は昔からあって、父と息子だったり、母と娘だったり、交叉するものもあれば、何世代にわたるものもある。この本もその一冊ではあるけれど、どういうところが特殊かというと、それはもう舞台がハイチであることに尽きる。

ハイチという国は、フランスから独立を勝ち取ったという栄光とは裏腹に、土地は貧弱で治安も悪いという。本書でも暴力の暗い影がしばしば現れてくる。

そのような国であるがゆえに、自分の体は自分で守らなければならない。そこは理解できるものの、それはこの国に住む女性にとっては過酷なものとなった。

まず誕生した時点で男女の取り扱いに差が生じる。男の子の場合は明るい灯の中で父親と過ごす(たぶん他の家族や産婆もいるのだろう)。
一方、女の子の場合は産婆も去ってしまい、暗闇の中で母親と赤ん坊だけが残るという。母親は娘に何を語るのだろう。

そして、本書でも重要な要素である母親による娘の「検査」である。これがハイチの母娘の関係をいびつなものにしてしまっている。
第一部でソフィーにとって尊敬の対象でもあったアティーは、ソフィーが去ると、実家に戻ることになるのだが、実家では母(ソフィーの祖母)との衝突や酒に走るシーンが描かれる。
帯や最終章にも出てくる「ウリベレ」というのは「軽くなった」という意味もあるようだが、アティーにとっては実家は、重しに他ならないということだろう。

ソフィーはそのような家族の歴史と母親の過去、自分に対して向けられた複雑な思いを受け止めて自立に向けて歩んでいく…筋としてはそんなところだろうか。

個人的には、ストーリーの背景として描かれる暴力が印象的である。ハイチの歴史、政治体制を調べてみるのも興味深い。また、他のカリブ諸国、とりわけ同じ島のドミニカ共和国との比較は面白そうなので機会があれば。