『雌犬』ピラール•キンタナ

概要

主人公のダマリスは40歳を迎えようとする黒人女性。コロンビアの沿岸部の都市であるブエナベントゥーラの沖にある島で、別荘の管理人をして暮らしている。別荘は地元の村からは少し離れた「崖の上」にある。夫のロヘリオは大柄で、かつては不妊治療にともに取り組んだものの、効果は表れず、夫婦仲は良くはない。ダマリスが暴力を振るわれている描写はないが、すでに飼っている犬たちには容赦がない。

そんな中でダマリスは雌の犬を貰い受け、これを溺愛して育てようとする。娘に名付けると言っていた「チルリ」という名前を与え、ロヘリオや他の犬のターゲットにならないよう気を配る。

ただ、それで何も起こらないはずがなく、ある日、犬は行方不明になってしまう。もちろん、ダマリスは懸命に探すものの、何日経過しても見つからない。あきらめつつあったときに犬が帰ってくる。怪我した犬の世話をするダマリス。また、元の生活に戻ると思ったものの…。

母娘関係

娘に与えると言っていた名前を犬に与えているように、この擬似的な母娘関係が物語の軸になっている。ダマリスの母は赴任してきた軍人との間に彼女を授かるが、妊娠後にその軍人は逃げ出したため、島から離れて働きに出ることになる。その光景は幼いダマリスにとっては「思い出すたびに孤独を感じ、泣きたく」なるものであった。その母もダマリスが14歳の時に亡くなってしまう。

ダマリスが雌犬を溺愛するのは、自身が母と接する時間に恵まれなかったこともあるだろう。母娘関係をやり直したいという意識もあったかもしれない。ただ、もちろん娘は母の所有物ではないし、それぞれの人生を生きるものである。人間であればゆっくりと時間をかけて対立と和解を繰り返しながら互いの尊重に至るものだが、相手が犬であればそうともいかない。人間よりも早く成熟する犬を見て、ダマリスは自身の一部が裏切られた気分になってしまう。

ダマリスの行動を非難することは簡単だ。ただ、作者はそこに至るまでの過程で、男女の問題、白人と黒人の格差、島の生活、過去の思い出、人間と動物、人間と自然など、165ページの中にいくつもの要素を重ねている。その全てがこの結末を導くために配置されていることに驚くばかりである。

熱帯の島が舞台であるためか、多くの水が出てくる。雨であったり海であったりする。しかしながら、この作品での水はあまり好意的には描かれていないようだ。雨が降れば島内の交通に影響を及ぼすし、海は子供の頃の友人のニコラシートの死の原因であり、また、引き受け手のいない子犬が流されることもある。最後には雌犬の尿が出てくる。生命の誕生の時には羊水に囲まれている。その逆で死に至る時には尿に囲まれるということであろうか。

文体

無駄のない文体で容赦なく描き切った、と国書刊行会のホームページでは紹介されている。一文一文が短めの文章で、素直に「思った」などと書かれているので読みやすかった。