『荒地の家族』佐藤厚志

職場で2011年の3月11日が話題になると、自分はあの時どうしていた、という話になりやすい。職場で、学校で、家で、あの時に遭遇した個別の体験談が、人々の前で語られる。話す人はもちろん、聞く人にも見た映像が聞こえた音が呼び起こされる。言ってしまえば時間がよみがえるということだ。

平成の文学史において、そのような「物語」が数多く生まれた時期が確かにあった。そういった「物語」は被害を直接に描くというよりは、幻想的に、あるいはSF的に、「あの出来事」といった形で背景や語りの中に溶け込んでいくことになった。希釈化と言ってもいいだろう。その中で、震災とそれに見舞われた人間の生活を直接的に描いたのが本書である。

概要

主人公の坂井祐治は40歳の男性で個人で造園業を営んでいる。息子の啓太は小学六年生で親子関係に変化が見られる年頃である。かつては妻の晴海がいたのだが、病気で先に亡くなってしまう。知加子という女性と再婚するものの、彼女は流産してしまい、結局は離婚してしまう。

造園も個人でやっているので、できる範囲は限られる。京介という若者を雇おうとするのだが結局はうまくいかない。

もっとも孤立しているわけではない。役場で働く友人の河原木は祐治に細かい仕事を回しており、母の和子が事務作業や啓太の世話を見ている。啓太に差し入れを持ってくる地域の住人もいる。

また、六郎という老人もいる。六郎は、祐治の父の孝にとって部下であった人物で、孝の死後はいろいろと面倒を見てくれたり話し相手になってもらっていたりする。その六郎の息子が祐治と同じ年の明夫である。明夫は職を点々として現在は地元に戻って中古車販売店で働いている。

明夫は「俺に触んな、お前に何がわかんだよ」の台詞が悲しく聞こえるように、裏の主人公といった役回りで、やがては悲劇的な最期を迎えることになる。

生活風景

自分がこのような生活をしているわけではないが、日本のどこかにありそうだな、と思った。それだけリアリティがあるように思えた。

例えば、子供の頃から続く明夫との横の関係、中学や高校、職場で生じる縦の関係。これを逃れようとすると、大きな代償が身体的にも精神的にも課せられる、あの関係である。西島農園での野本とのやり取りは息苦しさを感じさせる。

(そういえば、あの頃に「絆」という言葉が広まったが、手元の辞書だと「断とうにも断ち切れない人の結びつき」とあった。随分と恐ろしい言葉だと思った。)

主人公の職業が造園業だけあって多くの植物と、肉体労働の描写が登場する。自分は、京介のように花が咲いていなければどれがツバキか分からないほどの知識なので植物の方は残念だが、それでも仕事中の汗や息づかいなどそういったものを身近で感じることはできた。

また、これは個人的に印象に残ったのが、都会である仙台と主人公の生活する「田舎」との対比である。知加子に会おうとする主人公は、会社の上司などに拒絶される。彼らよりも身体的には強いはずの主人公が、拒絶されるのが何とも言えない。

構成上の特徴

 まず印象的なのは海へ行く回数の多さ。その海の描かれ方もこんな感じだ。

荒ぶる海は波が高く立ち、潮が煙っていた。足場がなければ人が生きられない世界。見通しが悪く、果てしない。ただただ広く、時間も距離も消え、灰色の虚無が横たわっていて自分が今立っている場所を見失いそうになる。

厚く黒い雲の下、航行する船のない海はあの世を思わせ、波の寄せては引く浜辺は常に生と死のせめぎ合いを想起させた。黄泉から無数の死者の手が伸びてきて、死が迫るようだ。ひと言呼びさえすれば、即座に死者が応え、引き寄せられ、あっという間に波の間に飲み込まれそうだ。

自分は原民喜の『夏の花』に通じる表現のように思った。日本のある世代に焼け野原の光景が共有されていたように、今の日本に生きる世代には、この海の姿も共有されているのではないだろうか。津波の海が真っ黒であること、生活の場がまるで当たり前のように侵犯されることを我々は知っている。

ただ、震災直後とは異なる点として防波堤の存在がある。この圧迫感もこの小説の中には何度も視界を遮られる存在として描かれている。忘れてしまいたいのだけれども、その大きさゆえに存在を意識せざるを得ない、嫌な記憶に対する蓋のように思えた。

地理的な話

逢隈や亘理駅といった駅名が登場する。亘理町仙台市から少し南に位置しており、亘理駅と仙台駅は常磐線で30分程度。朝夕は一時間に三本の電車もあるが、それ以外は一時間に一本程度となる。

作中で何回か近所の人がリンゴやイチゴを持ってくるシーンがある。亘理町の総合計画によるとリンゴとイチゴの栽培は昭和の初め頃から始まっていて、特にイチゴの方は生産量も多いとか。

あと、作中では描かれていないものの、はらこ飯も名産品だそうだ。本作でも釣りのシーンが何度か出てくる。地元や仙台市民の身近な釣りスポットになっているのかもしれない。

亘理町のサイトより。イチゴがおいしそうである。

https://www.town.watari.miyagi.jp/tourism/detail.php?content=146

男女•家族

主人公の父はこのように描かれる。

親父の孝は家族に対して寡黙で何を考えているかわからず、単身赴任で家にいない時間が多かったせいで、顔を合わせても何を話してよいかわからなかった。孝が祐治に聞くのは「リモコンはどこだ」とか「和子はどこだ」とかそんなことだけで、祐治から話しかけるのは稀だった。

ある種に父親の典型であろう。言葉の少なさは主人公にも伝わっているところであり、仕事に精を出すことで時の解決に任せることは、結局のところ見て見ぬふりにすぎないことが、晴海の体調悪化の場面でも、知加子の流産の前の場面でも描かれる。

晴海へ思いは幽霊(というか幻影)として主人公の前に立ち現れ、知加子との生活はしばしば噛まれた記憶として蘇ってくる。主人公が肉体労働者だからであろうか、過去の未練や記憶を視覚や痛覚を通じて描くのが特徴的だと思った。

将来

過去の記憶が何度も繰り返され、螺旋巡りをしているような本作だが、そのような中でも成長を見せている存在として啓太を挙げておきたい。

親の祐治に比べて内向的として描かれるものの、近所の人に挨拶をする点や親の祐治に手を置く点は、それまでの世代の男性とは異なるイメージを与える。また、最後に、それまで止まっていた時の流れを一気に浴びたかのように頭髪が白くなってしまった祐治を見て、ゲラゲラと笑い出すシーンがある。自分は、そこに親が感じた苦味を笑い飛ばすような子供の元気を見たような気がした。

 

 

『語られざる占領下日本』小宮京

日本の占領期における人々の行動は、まだまだ不明な点が多い。導入で著者が取り上げるのは白洲次郎終戦から二十年が経過した頃のインタビューで、彼は「非常に忘れようと努力していることもある」と告げる。その理由として著者はGHQの資料を挙げる。そこにあったのは、後年の白洲次郎のイメージとは全くかけ離れた、御用聞きのような姿であった。

もっとも、GHQの資料が当時の実相を伝えていたかというと疑問がある。いわゆる、勝者の歴史ということかもしれない。そこで最近の占領期の研究では日本側の史料も使用することで相対化を図る試みが取られているという。本書はそのような史料も用いることで占領期日本の一面を明らかにするものである。

最初に取り上げられるのは谷川昇という人物である。渡米してハーバード大学を卒業するという華々しい経歴を持つが、あくまでも東京都という自治体で勤務した人で、今でいう地方公務員であった。それが敗戦で一変する。アメリカ留学の経験を買われ、山梨県知事を経て内務省の警保局長へと抜擢される。

その背景にあったのはGHQによる制度改革の指令で、地方行政に詳しく、英語ができ、ハーバードでの人脈を持つ谷川は打ってつけの人物であった。

ちなみに、この時の内務省の状況がすごい。何しろ公職追放で実情を知っている役人は誰もおらず、下級の職員が一人いるだけだった。しかも書類は全てGHQが持ち去っていたという。国の省庁の局長が、課の一般職員と二人だけで作業を進めるというのは、今では考えられない光景だろう。

しかしながら、やがて谷川自身も公職追放に遭ってしまう。表向きは過去の経歴だが、実際はGHQの内部対立に巻き込まれた可能性が高いという。このあたりの話はまさに「運命のいたずら」という感がする。そして追放中に広島カープの創設に関わるのだが、その理由もGHQとの折衝に備えて、というものであった。カープの創設と野球連盟への加盟を果たすものの、やはりGHQによって球団経営から手を引くように指示されることになる。

この章を読むと、まさに運命に翻弄された人という印象を受ける。東京都の役人で退職するところ、その経歴ゆえに抜擢される。しかし、就いたのが警察関係であったことから、GHQの内部争いに巻き込まれ、後々まで影響を受けることになってしまう。著者は「代理戦争の犠牲者」として呼んでおり、まさにその通りだと思った。

 

占領期においてGHQとのコネクションを如何にして持つのか、そして掴んだらはなさないようにするか、ということは文字通り死活問題であったのだろう。谷川昇よりも、もっと政治に深く関わっていた人々が第二章以降で取り上げられる。政治家である。以下、簡単にまとめておきたい。

第二章で登場するのは三木武夫。三木といえばクリーン三木。だが、本章の前半で著者はそのイメージは、田中角栄との対比で形成されてきたのではないかという。それ以前の行動はまさに「バルカン政治家」にふさわしいものであった。

まずは三木人脈として三人の人物が出てくる。福島慎太郎、平澤和重、松本瀧蔵の三名である。福島と平澤はアメリカでの勤務経験がある元官僚、松本は日系二世の代議士であった。要するに戦後直後の日本で重要な知米派であり、公職追放にも影響を及ぼしていたという。三木はこういう人々と強固なつながりを得ていたわけで、三国志で言えば、勢力は小さいけれども最初から有力な武将を揃えている誰かの姿が思いつく。

さらには、いわゆる山崎猛首班工作事件において、当時の中道政党を率いていた彼は連立政権の可能性もあることから首班の打診すら受けていたという。ここで受けていたらどうなったのか、考えてみると面白い。

第三章はフリーメイソンと日本政治との関係で、出てくるのは自身も会員である参議院議員の河井弥八という人物である。

日本史の本で、フリーメイソンが出てくるとちょっと怪しい感じもするが、鳩山一郎が実際に会員になっており、フリーメイソンの中で昇進したことが当時の毎日新聞で報じられたという。

ただ、そこはやはり政治家。フリーメイソンもあくまでGHQとのコネクションの一環という見方であり、先の河井もやがては退会することになる。

第四章に登場するのは田中角栄。世代や当時の立場もあってGHQとの関係ではなく、山崎猛首班工作における田中の実際の行動を明らかにするものである。

結論としては後に語られるような浪花節的な振る舞いはしておらず、戸川猪佐武という書き手を得て、福田赳夫(経歴的には官僚を経て旧自由党の議員として当選した彼の方が保守本流という見方もあったという。)との対抗から生み出されたイメージであった。

 

日本史のテストにおいて第二次世界大戦後の様々な改革は明治政府の改革とともに頻出であり、ドラマ等でも盛んに描かれるため、日本人の中で一定のイメージが形成されていることと思う。日本の占領が戦後日本の原点であることはそのとおりであるが、それを駆動させる政治空間は極めて現実主義的な空間であったことは忘れられがちである(というよりも複雑すぎて覚えられないのが実感である)。占領期の厚みを実感させてくれる一冊であった、そんなことを思った。

『天使が見たもの』阿部昭

表題作の『天使が見たもの』を含め14篇が収録されている。先日の竹西寛子の作品集と同様に、いくつかの作品は高校の現代文の教科書に掲載されたものであるという。

『天使が見たもの』は沢木耕太郎の解説がすべてを物語っている。少年の遺書の内容と、その実際の生活圏の範囲の狭さを考えると胸が痛くなる。

また、『子供部屋』も締め付けられる作品だ。昭和の時期に障害者を家族に持った人々の生活は、今、改めて振り返る必要があると思った。

 

さて、ここでは『子供の墓』という話を取り上げたい。父親が3歳の息子を連れて夏の日に外出する話である。

父は息子を自転車に乗せて寺の墓地を訪れる。息子は墓地で家族の墓石に水をかけるが、死の概念などはまだなく、父親に自身の墓を訪ねたりもする。また、その寺は尼寺だったので、尼にまつわる過去の思い出が途中に挟まれる。思い出をひとしきり振り返ったあと、父は息子を連れて帰路につく。

こういった話なのだが、最後の4ページが実に怖い。怖いというか不気味というか。夏であればセミなどが鳴いている時期であるにもかかわらず、それらがまるで聞こえなくなった、そんな不気味な静けさがある。

 

冒頭では尼寺に行くまでのコースが描かれる。明るい警笛のロマンスカー、大きな音を立てて重機が動く建設現場、青々とした葉と茄子畑、明るい夏の風景のなかで二人は尼寺に到着する。

子供の目当ては寺の墓地。夏の日中なので恐ろしい場所ではない。子どもが変わった形の墓石を指して「ナショナルのお墓」と言ったり、全然知らない他人の家の墓石に水をかける場面もあり、あくまで「面白い場所」である。しかし、「なんてここは暑いんだろう」「足元から火がつくようだ」と暑さ・熱さを強調する事も忘れない。

そして、子どもたちの墓石を見たとき、次のような文章が登場する。子供が遊んでいても、やはりこの場所は墓地であったこと、そして、暑さ・熱さは死にも通じることが一気に結び付けられることになる。

だが、彼の目に止まったのは、近い過去に生命を絶たれた子供たちばかりではなかった。ざっと三十年前の日附をもつ何人かの子供たちをも、彼はその中にかぞえた。生きていれば、おそらく現在の彼の年になっていたであろうその子たちの死は、むしろ彼には親しいものだった。彼等はきっと栄養失調か、空襲の火のなかで何万何千の同類とともに死んだのにちがいない。いつの時代にも子どもはぼろぼろ死んでゆく。ただその死に方が変わっただけだ。

ここで子供の死のイメージが一気に具体化される。「生きていれば…」のところは、自身と死者の間を分けるものがそれほど強いものではなかったようにも見える。

ただ、話は、いったんは、この寺で生活する尼たちの行動や暮らしの方へ進んでいくことになる。まだ、世界は転換しない。子供の「どうして」に少し辟易する様子、若い尼が車に乗るようになって、運転に習熟していく様子、「口に入れるよりは眺めているほうがいい、手のこんだ芸術品んのようだった」と言われるほどの精進料理が出てくる法事にビール、子供の風船を割ってしまって母親に謝る姿…。具体的で、少しコミカル、そしてカラフルな、生活感のある風景が続く。

 

そういった振り返りの時間が過ぎて、父親は子供を自転車に載せて帰るのだが、踏切を越えた後の帰り道は先程とは違う。

まずは、凍りついたアイスクリームがたちまち溶けているように、もう一度暑さが強調される。そして「明るい警笛」もなく登場する、白と青の電車に乗った大勢の人。この話では「白」は死の色なので、これに多くの人が乗っていること、そして人々のカラフルな帽子やバッグが遠くに過ぎ去ってしまうこと、これはまるで、この親子だけが取り残されてしまったかのようだ。

そして世界を一気に変えてしまう次の文章。

地上のすべてのものを灼きつくし、人間どもをあぶりつくして、彼等の身も心もぼろぼろにしてしまう業火。

彼は、その光が、いまも目にしている白昼の戸外のいたるところによみがえるように思い、歓喜とも苦痛ともつかぬもので胸がくるしくなった。砂の下からたちのぼる熱い空気のかすかな流れにも、草の葉の濃い影にも、灼けた石のにおいにも、遠近の家々にひるがえる白い洗濯物の列にも、彼はその光を見た。この白い野が父親自身の幼年の墓だった。

映像であれば、画面一面が真っ白になっていく場面であろう。白い光に包まれた後の残り1ページほどは「死の国」のような無人の町を見て回る姿が描かれる。

子供を連れていることはどのような意味を持つのか。そして消えてしまったのは、周囲の町の人なのか、それとも見ている本人なのか…、そんなことを思った。

『崩壊』オラシオ・カステジャーノス・モヤ

ラテンアメリカの文学は登場人物が多くて関係性がよくわからない、そもそも名前からして複雑だ」。そんな心配はこの本に限っては御無用だ。基本的に登場するのは一つの家族。異父•異母の兄弟姉妹はあまり登場しない。そして登場人物の一人、レナ・ミラ・ブロサのインパクトが強すぎるので、どうしても彼女に注目してしまう。ここまで台詞の端々に「!」が出てくると、読む側としては笑ってしまうというか、どんな悪態をつくのか楽しみにすらなってくる。

 

舞台となるのは、ホンジュラスエルサルバドルの中米の二国。この二国間の関係を指す上で有名な言葉は「サッカー戦争」だろう。ただ、wikipediaの同項目にもあるように、いくらなんでもサッカーの勝敗だけでいきなり戦争に結びつくわけではない。長期にわたる確執というか恨み辛みというか、そういう事情があったりするわけだ。

 

本書は三部構成で、第一部はホンジュラスの政治家エラスモとその妻のレナの会話が中心の話である。エラスモは娘のテティの結婚式に出かけようとするのだが、レナは娘がエルサルバドル人のクレメンテ(しかもかなり年上)と結婚したのが気に入らない。出席を巡って口論になり、エラスモがトイレに入ったときにレナは彼を閉じ込めてしまう。トイレのドア越しに交わされる口論が、舞台劇のようで面白い。

 

この二人の会話に登場する国民党と自由党というのはホンジュラスの二大政党で、この話の舞台の1963年11月22日というのは、軍部が自由党政権に対してクーデターを起こしたばかりの時期に当たる。エラスモは国民党の幹部のようで、国民党はおそらく保守派の党なのだろう。1930年代から40年代の終わりにかけて強権的な大統領の与党として、政権を担ってきたそうだ。それゆえだろうか、レナの共産主義者に対する嫌悪感は相当なものである。

また、エルサルバドルは古くからホンジュラスに移民を行っており、さらには1960年代には工業製品の輸出を行っていたという。レナの自身とホンジュラスを同一視するような極端な被害妄想は、こういう背景もあるのかもしれない。

 

第二部はエルサルバドルからのテティの手紙を中心に、前半は1969年5月から12月までが描かれる。サッカー戦争は、この年の7月に発生している。サッカーの試合前後の暴徒の描写は臨場感がある。そして、互いの国のメディアが煽動を行っていることも何度も述べられている。何かきっかけがあれば大規模なジェノサイドに発展していたのではないかと思った。

後半は1972年3月から6月までの時期が描かれる。エルサルバドルでは3月25日にクーデターが発生しており、テティからの手紙と、エラスモの友人の外交官•フェルナンデスの手紙によって、クーデターとクレメンテの死について重層的に語られる。(クレメンテの死の原因は三章で少し触れられる。)

 

第三部は1991年12月から1992年2月までの時期。エラスモはすでに亡く、レナの死に至るまでとその後のミラ•ブロサ家の離散が使用人のマテオの目を通して語られる。エルサルバドルでは1991年にようやく内戦が終結し、政府と戦闘を繰り広げた左翼ゲリラは合法政党へ転換する。

老いたとはいえレナの毒舌ぶりは健在で、使用人に対して容赦ない。死んだエラスモに対しても「色ボケの弱虫」という有り様だ。(マテオ曰く、エラスモが死亡した後のクリスマスに、同情を込めて彼を呼んだというのがこれである。思わず笑ってしまった。)。ただ、語り手のマテオに対する口振りは丁寧で「さん」付けである。この言葉が本当にこのとおりに発せられていたのであれば、レナの別の一面も見えてくる。また、一方的に溺愛した孫のエリは、ホンジュラスに戻る考えは全くなく、もう一人の孫のアルフレディートは厄介者になってしまった。屋敷は売却、レナに関係する手紙は焼却され、レナがいた記録はテティが持って帰ったアルバムと、マテオが譲り受けた農園の名前にの残ることになる。

 

さて、冒頭に戻ると、シェークスピアの『ペリクリーズ』の台詞が引用され、「時こそ人々の王だということ」とある。

残念ながら中米の現代史に詳しくないため、20世紀中盤以降のホンジュラスエルサルバドルの歴史の流れ、つまり軍事政権やサッカー戦争を経てエルサルバドルの内戦の終結までの過程が、両国の人々にとってどのように受け止められているのかは分からない。第三部から30年以上の時がたった今、「昔の方がましだった」という声もあるかもしれない。ただ、本書を読み終えてその時代の流れを振り返ると、見えてくるのは歴史の流れと、その流れに時に乗り、時に惑う人々の姿である。

作中でレナが発する叫びは、歴史の1ページがめくられようとするときに、前のページにいた人間が、そのページをめくる手の動きに抵抗せんとして叫んだ声に通ずるのではないか、そんなことを思った。

 

『すべて内なるものは』エドウィージ•ダンティカ

エドウィージ•ダンティカの短編小説集で、日本での発行は2020年。八つの作品が収録されていて、ハイチに暮らす人々というよりは、国外で生活する人々に焦点を当てている。

『ドーサ 外されたひとり』

現在はマイアミで介護の仕事に就くエルシーのもとに、元夫のブレイズから電話がかかってくる。ブレイズは、恋人のオリヴィアがハイチで誘拐されたと言う。オリヴィアはエルシーの友人でもあった。自分を置いて去った元夫と友人のために、エルシーはお金の工面をするが、実は裏がある可能性があって‥。

ドーサというのは、「双子から外れた余分な子」という意味のようだ。誰がドーサになるかは、時と場合によって異なる。ただ、ドーサになって初めて生まれる関係性もあるだろう。それは回り道という奴かもしれないが。

『昔は』

ナディアはアメリカで、移住者向けに英語を教えている。彼女自身はアメリカの生まれだが、両親はハイチの生まれである。母が彼女を身籠ったときに、父のモーリスはハイチで学校を開くという夢を見て帰国してしまう。そんなナディアのもとにモーリスが死に瀕しているとの連絡が入る。

「私の最初の儀式の場にいなかったくせに、どうして自分の最後の儀式の場にいてほしいと私に望めたわけ?」は、ハイチで昔の人の誕生と葬儀の様子を聞きながら思ったナディアの独白である。カミュの異邦人を絡ませながら、父への反発から理解へと動く様子が丁寧に描かれる。

ポルトープランスの特別な結婚』

語り手の「私」はポルトープランスでホテルを経営している。メイドとして働いているメリサンから、自分は死ぬかもしれない、と告げられる。メリサンはエイズだったのだ。さっそくカナダ人の医師の診察を受け、投薬が始まる。薬によってメリサンの症状の悪化は食い止められたように見えるのだが…。

20ページの短編でありながら様々な要素が詰め込まれている。ハイチ人の間でも経営層と労働者層との分断、白人に向ける視点、ある種の医療崩壊NGOの欺瞞、などなど。真相を知った後の「真実も魔法も癒やしもない」と告げるメリサンの眼がただただ哀しい。

『贈り物』

アメリカとハイチで不動産会社を営むトマスと、アメリカで美術を教えるアニカの会話劇。トマスは妻子がいて、アニカはいわば不倫相手でもあった。トマスはハイチに帰国している間に大地震に遭ってしまう。久しぶりに会ったトマスは、着飾ってきたアニカとは対象的に、痩せてしまい、かつて見られたエネルギッシュな姿は失われていた。

自身でトマスは妻子を失い、自身も義足が必要な体となってしまう。一方、アニカも流産で子供を亡くしていた。トマスに対して複雑な思いを抱きながらも、その先にいたトマスの妻と子の姿をスケッチにとどめ、苦味を包み込むようなアニカの姿がなんとも美しい。

『熱気球』

ネアとルーシーという若い大学生の感情の交錯を描く。ネアの両親は共に大学教授。お金に不自由したことはない。ルーシーはアメリカ生まれだが、両親はハイチの出身の季節労働者。つまりは苦学生である。ネアはレヴェというハイチの女性のためのボランティア団体に関心を持ち、実際にハイチに行くことになる。帰国したネアはルーシーにハイチの女性の過酷な状況を聞かせるのであった。

話を聞いたルーシーは、自分が援助される女性の中に含まれていなくて幸運だったと思ってしまうこと自体が嫌だったっという。この感情は理解できるような気がする。少しボタンの掛け違いが起きていれば、自分もアメリカの若者に哀れみの目を向けられていたからだ。ネアと自分の間にある溝を知りながらも彼女に寄り添わんとするルーシーにしみじみとさせられる。

『日は昇り、日は沈み』

キャロルとジーンという母娘を軸とした物語。キャロルはハイチから渡ってきて、ときには陰でアルバイトをしながら懸命に子育てをしてきた女性だ。一方、娘のジーンにとっては過干渉だったのだろう。キャロルに認知症の症状が現れると、互いの関係は悪い方へと向かってしまう。そしてとうとうキャロルはジーンの子供を奪い去るという行動に出てしまう。

母と娘という普遍的なテーマを扱いつつも、背景にはやはりハイチの過去の出来事がつきまとっている。最後にジーンが言う「ありがとう」の声はキャロルに届いているのかどうか。

『七つの物語』

子供の頃にブルックリンで共に過ごしていたキャリーとキンバリー。キャリーは実はある島国で首相を務めていた人物の娘で、その父が暗殺されたために逃げてきたのだという。今は母国戻り、若い新首相の妻となっている。キンバリーはキャリーに招かれ、その国を訪れる。

島国の名前は出てこない、いくつかの国を調べてみたが、おそらくは架空なのだろう。他の作品とは異なり、首相夫妻のセレブな生活も描かれている。だが実際の姿はそうではない(「私たちと一緒にいたらこの国の本当の姿は見られない」というキャリーのセリフが残る)。そして、同様に表に出てこないキャリーの母。最終盤でキャリーとその母が、島のすべてを眺める姿に気品と誇りが感じられて美しい。

『審査なくして』

これまでの作品とは異なり、これはアーノルドという男性を中心とした話になっている。最初に言う。名作である。

ストーリーはアーノルドが過去の思い出を振り返るというものだが、そのシチュエーションが高層ビルの作業場の事故で落下している最中なのだ。つまり、必ず死んでしまうという状況の中で、読者は彼の思い出に触れていくことになる。

アーノルドはダーリーンという女性と、その息子で少し障害のあるパリという男の子と暮らしている。彼はいわゆるボートピープルで、途中で船から降ろされ泳いでアメリカに到着した。それを助けたのがダーリーン。彼女自身もボートピープルで、途中で夫を失っているシングルマザーでもある。やがて、この三人の間に愛が生まれて‥。

ストーリー自体はある種の典型に見える点があるかもしれないが、残りの時間がわずかであるからこそ、過去の思い出が一層美しく見える。アーノルドの最後の歌と言葉が風のようにダーリーンとパリの耳に届くシーンは崇高という言葉がふさわしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

『神馬/湖』竹西寛子

副題で精選作品集とあり、1989年に発行された自選短篇集のタイトルである『湖』と、2002年から2003年にかけて発行された『自選竹西寛子随想集』(のうち、高校の教科書に掲載されたもの)を合わせたものとなっている。

表題に選ばれている『神馬』は、1972年の作品。1985年には高校の教科書に選ばれている。少女が抱いていた共感や親近感が、島の馬の「機械的」な動作の前に残酷にも崩れてしまう過程を描いた作品だ。この時の少女の気持ちを言葉にするのは本当に難しい。「あはれ」という言葉はこんな時に使うのかもしれない。

この少女を「ひさし」という少年に置き換えたといえるものが、巻頭の『兵隊宿』『虚無僧』『蘭』の三作品。少年が、「自分がこれまで知らなかった新たな感情の世界」に触れた際の戸惑いが、具体的なエピソードを通じて描かれている。

一方、『春』と『迎え火』には老年をテーマとする作品である。老人が亡くなっても放置されているブロック、認知症と親子の対立といった描写には、少年と少女の進む世界の、ある種の厳しい結末が感じられる。

他に印象に残った作品として『鮎の川』を挙げておきたい。家族で過去に行ったという鮎の棲む川をもう一度訪れるという話である。まずは冒頭の文章。

「蛍が飛んでいた。」

と弟が言う。

「川の音が聞こえたわ、お座敷にいて。」

と私が言う。

「川原に続く庭の松の枝に、木の鳥居みたいなつっぱりがしてあったのを僕はおぼえている。」

そろそろ明かりの欲しい黄昏どきのような、そこがどことは知れない暗がりの中に、白絣を着た弟の上体だけがぼんやり浮き出している。

過去の記憶をめぐるやりとりが、会話形式で始まっている。私と弟という家族間の会話で、どうも読む側としては入りにくい。川のそばの家で蛍を見ていたことは分かるが、「鳥居みたいなつっぱり」と言うのも想像しにくいし、挙句に、暗がりの中の白絣にぼんやり浮いた弟と言うのが、ひどく曖昧な存在に見える。

この後、兄も登場し、兄弟間で思い出話をするものの、弟と兄の境界がなくなり、場所も霧の中の渓谷に移ってしまう。これは過去の記憶なのか、それとも夢なのか、分からないまま終わってしまう。

その後は一転して急に現実的な場面に入れ替わる。手元にあるのは山村聡の『釣りひとり』。山村聡は、あの俳優の山村聡で、おそらくこの作品が書かれた1975年ならば誰もが知っていたのだろう。この『釣りひとり』の描写に親近感を抱き、井伏鱒二の『川釣り』の一節を思い出すと、実際に川に向かうことになる。

ここから先は前半とは打って変わって具体的で、リズミカルだ。

瀬の音が聞こえる。

松風の音が聞こえる。

 

真紅は山百合だ。

乳色の苞が、玉蜀黍の実を守っている。

薄紫の茄子の花が、濃い黄の、胡瓜の花が、いまにも滴りそうな色に咲いている。

音の描写から一行を置いて、実にカラフルな情景が描かれている。かつて鮎釣りの名人だった運転手に導かれ、自分も一緒に川の源流までの旅に同行しているようだ。

さて、『鮎の川』が書かれたのは1975年だ。収録されている『時の縄』(1985年)によると、11年前に母が死んだ、とある。つまり、そういう時期の作品でもあるわけだ。鮎釣りを急にやめたという運転手の男性の話に何を感じたのか、そして、なぜ「カンスイエン」をもう訪ねることはあるまいと決断したのか。そんなことを考えると、美しさと悲しさが一体化した川の景色が見えたような気がした。

 

『遠い指先が触れて』島口大樹

「X」という字のような小説だと思った。「X」は離れていた線どうしがどんどん近づいていって、ある一点で交わり、そして離れていく。ただ、一度交わった線は、交差する前の線と同じだろうか。例えば、絵の具を使って、赤の線と青の線で「X」の字を書いたとしたら、交わった後の線の色合いは異なるものになるだろう。そして交わった跡は消えることなく、紙の上には「X」の字が新たに生まれることになる。

 

主な登場人物は2名。まずは主人公の萱島一志。自分がここにいることに関しての実感に乏しく、常に一歩引いた性格の持ち主として描かれる。

僕はいつの間にか目線を上げて吊革を探しているけれど、埋まっている、と気付けば認識している。(略)みんな僕と同じで身体を持ち同じように意志があって人間なんだ、と当たり前のことにわざわざ気が付いたりしているのは、僕に近しいと言える人間がいないからだろうか。と思った時には僕は自分の考えていることに興味がなくなっていて、少し前にいる、僕と斜めに向き合っている男性の眼鏡から覗かれる歪曲した世界を眺めている(7〜8p)

冒頭の満員電車での出勤のシーンだ。感想が述べられたあと、読点の一拍を置いて、さらに補足したり、考えが放棄されていて、なかなか本心が明らかにならない。

なんかすごいね、と彼女は感嘆して、景色が反射して青みがかった瞳と、ほころんだ頬を、僕の眼は映している(119p)

後半もこのような感じで、あくまでも一歩引いた態度が続く。すごく細かい点まで見ているにも関わらず、「僕の眼は映している」というのは、そこまで観察者でありたいのかと思わせるような表現だ。

この一志の前に現れるのが、かつて施設で一緒だったという少し年上の女性の中垣杏。彼女は一志に幼い頃の記憶が奪われていると告げ、失った記憶を二人で探していく。

杏の記憶に対する考え方は一志とは異なる。

一志はこんな具合だ。

僕の知らない僕がいようがいまいが、何かが変わるとは思えなかった。現在の僕は、確かに生きていたと自覚していたり無意識のうちに了解している過去の僕の重なりであるからしてそれで充足している。過去にいたはずの知らない僕は今の僕からすれば僕ではないのだ。失っているかもわからない僕から遠く離れた僕に、それでも固執する必要があるのだろうか。(44p)

杏はこんな感じ。

私は、なんていうか、別に辛いこととか昔のこととか、忘れてもいいと思うの。それは健全な在り方だと思うの。でも結局、そういう私がいたことが、いなかったことにはなってほしくはない、って思うの。だから、何があったかは、知りたい。(49p)

記憶を奪った大山という男は何者なのか。一志と杏の関係にどういう変化が訪れるのか。失った記憶には何が残っているのか。こういったミステリ的な要素や恋愛的な要素も含まれており、続きが気になる話になっている。

そして、なんといっても特徴的なのはその視点の行き来である。これはもう、ぜひ読んで感じてほしいというもの。SFやアニメでは先行の事例があるかもしれないが、自分が読んだのは初めてだ。ほとんどの小説は人物の交錯が描かれるから、そういう意味では多かれ少なかれ「X」の要素を持つ。ただ、その交わるまでの互いの線の行き来を、そして、一点に収斂する様子をこれほど濃密に描いた作品を自分は知らない。

 

しかし、しかしである。第二章(?)以降も記憶の考え方は違いを見せる。

一志は「失われた記憶を特別視する理由もない。いつだって失っている。失っている、と言えるほど、自分の記憶は自分のものではないのではないか。」(84p)のままだし、杏は「私が今の私で充足しているとしても、彼女が私に対して開かれた状態にあるのであれば、やはり私はそれをきちんと受け止めるべきではないだろうか。耳に蓋をして、彼女の無言の叫びを遠ざけていてはいけないのではないか。」(85p)

大山に会ったあとも、大山に「その失った記憶も私の人生の一部だからです。その記憶は、私のものだからです。」と述べた杏に対して、一志は「果たして失くした記憶は取り戻す価値のあるものなのだろうか。」との反応を示す。そんな二人の仲は、「僕らは同じ部屋にいるけれど、人混みの都市で知らず知らずのうちにすれ違っているかのようだった」となってしまう。

記憶を持っているという人物に会いに行く途中のパーキングエリアで、ホテルで、二人は同じものを見て、それぞれどのように思ったのか。何を見ていて、何を見なかったのか。「X」の字が交差したあとのように、少しずつ離れていくかのようだ。

結局、一志が自身の考え方を振り返るのは失われてからになる。155~156pの自己否定は、一志のような考え方をしていた、数々の青春文学の主人公が繰り返してきた後悔でもある。

後悔をくぐり抜けた先にどうするか。本書では今を大切にするという考え方が示されている。最終シーンの一志と院長のやり取りは、何も生まないかもしれない。ただ、そこに二人がいるということ自体に意味がある。

思えば「X」という字も、中身はわからないが、確かに今、そこに何かがあることを示す字である。そういうわけで「X」の字のように思ったわけである。